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ある晴れた日に

 春の空がやわらかく霞んでいるその日、臨也は駅の改札口前の壁際で、ぼんやりと立っていた。
 携帯電話は手にしている。だが、手にしているだけで、画面を見てもいなければキーを打ってもいない。
 自分でも一体何をしているのだろうと思いながら、ただ、そこに立っていた。
 時折、ちらりと斜め横の方角へ視線を向ける。そこにはチェーンのカフェがあり、座って(大して美味くないとしても)コーヒーを飲むことは造作もない。
 行けばいい、と思うのだが、しかし、一向に足は動こうとしなかった。
 視線を改札口の向こうに戻し、天井から吊り下げられている電光表示を眺める。あと十分くらいか。そう考えて、妙に気恥ずかしいような、何とも言えない微妙な気分になった。

 次の休み、そっちに行く。そんな愛想の欠片もない用件のみのメールを受信したのは一昨日のことだ。
 普通に考えれば有り得ない送信者の名前を見て眉をしかめ、同様に有り得ない内容の本文を読んで削除したくなり、そんな電波なメールを受信した携帯電話を、そのまま窓の外から海に向かって投げ捨てたくなった。──なった、だけで、行動には移さなかったのだが。
 そして本日、電車に乗った。十一時半くらいに着く。そんな相変わらず用件のみでこちらの意向というものを全く無視した電波メールを、一時間ほど前にまたもや受信して、何故だか臨也はふらふらと家を出てきてしまった。
 理由など定かではない。とにかく、安眠妨害した携帯電話の画面を寝ぼけ眼で見つめ、頭を一つ振って起き上がり、シャワーを浴びて、身支度を整えて出て来た。それだけの話であり、ここにいるのは条件反射のようなもので、意味などない。
 ないはずなのだが、しかし、だったら何故、既に五分ほどもこんな場所でぼんやりしているのかということに対する上手い答えを、臨也は思いつくことができなかった。
「──そもそも、さぁ」
 誰にも聞こえないくらいの声で呟き、ちらりと手の中に携帯電話を見やりながら、この中に保存されているはずのメールは、現実だったのだろうか、と今更ながらに考えてみる。
 もともと自分は、朝に弱い。単に寝惚けて、夢うつつに出会い系か何かのスパムメールを見間違えたという可能性はゼロではない。
 あるいは、送信者の大して手の込んでいない悪戯だとか。そう考えて、それだけはないな、と首を横に振った。
 彼がそんな真似のできる人間だったなら、自分たちの関係は、もうずっと前にもっと違うものになっていただろう。だから、悪戯だとか嫌がらせだとかいう線は有り得ない。
 となれば、残る可能性は、寝惚けたか白昼夢か。どちらもあまり好き好んで受け入れたい現象ではない。が、どちらが多少でもマシかといえば、やはり寝惚けている方だろう。白昼夢は駄目だ。あまりにも痛過ぎる。
 携帯電話を右手に軽く握りこんだまま、そんなことを真剣に考え込んでいた臨也は、
「おい」
 そう声をかけられるまで、待っていたはずの電車が到着し、ホームから改札口に乗客が流れてきたことに気付かなかった。
「え……!?」
 聞き覚えのある愛想のない声に、ぱっと顔を上げる。
 だが、それがまずかった。
 正面に立っていた相手と、まともに目が合ってしまう。
 そして臨也は、理解してしまった。

 自分を見つめる、鳶色の瞳。
 あの頃と何も変わらない。
 喰らい付きそうな色で、自分を見ている。
 そして、その瞳に映る自分も、また。

「……ホントに来たんだ」
 何と言えばいいのか分からないまま、ぎこちなく口を動かす。
 すると、静雄は嫌そうに眉をしかめた。
「嘘だとでも思ってたのか、手前」
「そういうわけじゃないけど……でも、そんなもんかも」
 嘘と寝惚けと白昼夢。どれも真実でないという意味では同類だ。そう思ったのだが、その答えは彼のお気には召さなかったらしい。
 臨也を真っ直ぐに見つめたまま、くっきりと形のいい眉を強くしかめる。
「大概だな、手前は」
「何が」
「全部だ全部」
「全部、ってねえ。答えになってないよ、全然」
 言いながら、ああそうだ、こんな感じだった、と臨也は滞っていた血潮が流れ始めるように感覚が戻ってくるのを感じる。
 出会ってから離れるまでの十年間、静雄との口論はいつも、こんな風に噛み合わなかった。
 彼は野生の本能に忠実なのか何なのか、文明人の臨也には理解しかねる独特の理屈をもっていたし、臨也は臨也で、相手の言葉尻を捉えて振り回すのが何よりも得意だった。そう、自分たちは、決してまともな会話などできる間柄ではなかったのだ。
 そして、どうやらそれは三年経っても変わらないらしい、と感じる。
 けれど、決定的に違う部分もある、と臨也の内にある、常に冷静に相手と自分を観察する部分は気付いていて。
「……ったく、この間も思ったけどよ。本当に手前は変わんねぇな」
 大きく溜息をつく静雄は、三年前ならば確実にキレて青筋を浮かべていた。
「そりゃどうも。でも、人の顔見て溜息つくのは止めてくれないかな。溜息つくためだけに、ここまで来たわけじゃないだろ? 貴重な休日を潰してまでさ」
 そして臨也自身もまた、三年前ならば確実に静雄を怒らせ、笑いながらこの場を遁走していた。
 だが、今はどちらもそれをしない。そのことに、三年前とは違うのだという実感が、じわりと臨也の中に染みてくる。
 それが嫌なのか、そうでないのか自分でも見極めが着かないまま、臨也は口だけを動かし続けた。
「で? これからどうするとか決めてるの、シズちゃん?」
 言いながら、臨也は静雄の姿を改めて眺める。
 先日は勤務時間中であったからか、相変わらずのバーテン服だったが、今日の静雄はサングラスも無しの普段着だった。いい感じに色の抜けたブルージーンズに、ややクラシックな紺色系チェック柄のフランネルシャツ、エクリュ色の春物ウールジャケットが良く似合っている。
 よくよく見れば、どれもこれも大量生産品でトータルしても一万円を超えるかどうかというところなのに、まるできっちり採寸して仕立てたように見えてしまうモデル体型が憎らしい。
 対する臨也は、薄手のオフホワイトのVネックニットにブラックジーンズ、黒いパーカーというモノトーンのラフな格好だ。
 相変わらず黒主体ではあったが、かつてのような黒ずくめではない。情報屋を廃業してからは、自分の見てくれにそこまでの注意を払う必要も無くなり、今は黒以外も普通に着るから、クローゼットはそれなりにカラフルだった。
「決めてねえ」
 この辺は全然知らねぇしよ。悪びれもせずにそう言い放つ静雄に、臨也は呆れる半分、変わっていないことに感心するのが半分で、そう、と曖昧にうなずく。
「じゃあ、さ」
 言葉が上滑りしませんように、とらしくもなく祈りながら、臨也は静雄の目を見つめて告げた。
「うちに来る? この辺って、あんまり遊べるような場所も無いしさ。おなか空いてるんなら、昼御飯を先にしてもいいけど」
 食べるところは、そこそこあるよ。
 何でもない風にそう言うと、静雄はほんの数秒だけ、考える素振りをした。或いは、考えるふりをした。
「お前んちは、こっから近いのか」
「歩いて十分くらいだよ」
「そっか」
 じゃあ、行く。
 そんな、遠かったら一体どうするのかと突っ込みたくなるような返事をして、静雄は臨也にまなざしを返す。
 その瞳が、相変わらず今すぐにでも喰らい尽きたそうな色をしているのを見て取りながら、臨也は、「じゃ、行こうか」とずっと手にしたままだった携帯電話をポケットにしまって歩き出した。
 すぐに静雄も追いついてきて、十日前と同じように肩を並べて歩く形になる。歩く道も、前回にたどった海岸沿いの道だった。だから余計に、前にも見たことのある夢をまた見ているかのような、奇妙なデジャヴが脳裏を横切ってならない。
 建物の壁が途切れ、さあっと吹き上がってきた海からの風に臨也は目を細め、これは本当に現実なのかな、と改めて考えてみた。
 たった三年だ。三年前まで日常的に殺し合い、時には何故だか身体まで重ねていても、腐れ縁の天敵という名の他人でしかなかった自分たちが、こんな風に並んで歩いている。
 白昼夢にも程がある、と思うのだが、しかし、静雄の普段着なぞ、彼がバーテンの仕事を始めてからというもの、ついぞ見たことが無い。
 ということは、やはりこれは現実なんだろうか、と臨也はちらりと海側を歩く静雄に目を向ける。
 彼は、眩しそうに目を細めながら海に目を向けていて、春先とはいえ、それなりの明るさのある日差しの中で、頬から顎のシャープな線がくっきりとコントラストを伴って浮かび上がっている。その精悍さと繊細さが奇跡的な割合で同居するラインを、臨也は素直に綺麗だなと思った。
「──何だよ」
 視線に気づいた静雄が振り返り、眩しさに細めたままの目で臨也を見る。
 見惚れていたとはとても言えない。だから、臨也が口にしたのは、まったく別のことだった。
「池袋に住んでると、海なんて見る機会あんまりないから、新鮮なんじゃない?」
「……まあ、そうかもな」
 海際なんて滅多に行く用事ねぇし。
 そう言いながら再び海に目を向ける静雄は、かつてなら考えられない素直さで、臨也の中に非現実感がじわりと広がる。
「ここにもう一年以上、住んでるっつったか」
「うん」
 臨也に目線を戻して問いかけた静雄の言葉に、覚えていたのか、と臨也は思う。そのことだけでも、やはり白昼夢なのではないかと疑いたくなる。
 だが、
「一年以上、あっちこっちをふらふらしてたんだけどね。海外もしばらく行ってたけど、いつまでも住所が無いのもアレかなぁって、この街で手頃な物件を見つけたのが一年半くらい前」
 素直に答える自分もまた、彼から見れば非現実の存在に感じられるかもしれない。
 だったら、二人して非現実だか白昼夢だかの海で、海月のようにふわふわと漂うのもありかもしれない、と埒も無いことが頭をよぎった。
「──なんで…」
 言いかけた静雄の声が途切れ、いやいい、と打ち切られる。
 ふいと逸らされた目に、臨也は静雄が何を問いかけたかったのかに気付いた。
 訊けばいいのに、と思う。今の自分は、あの頃の自分ではない。訊かれれば答えるくらいの用意はある。そもそも隠し立てするほどのものは何もないのだ。
 今に限らず、あの頃だって、本当は隠さなければならないようなものは殆どなかった。いつでも思わせぶりに振舞っていただけだ。
 ただ、自分が何をしようと蟷螂の斧としてしまう彼を、少しでも翻弄し、苛立たせたかった。今から振り返ってみればそれだけの、滑稽で哀れな話だ。
 そこまでこの場で自ら明かす気は無かったが、臨也は静雄の言葉の続きを引き取って口を開いた。
「東京には何となく、戻りたくなかったんだよ」
 告げると、静雄ははっとしたようにこちらを見る。その視線を臨也は正面から受け止めた。
 何となく、という言葉は嘘ではない。突き詰めれば、幾つかの感情に至るだろうが、臨也はそこまで深く自分の心を追求しなかった。
 東京には自分の過去が全てある。自分の成してきた事、成し得なかった事が全てある。戻らない理由はそれだけで十分だったのだ。
「かといって田舎に引っ込む気にはなれなかったし、関東以外の土地にも馴染める気がしなかった。だから、ここ」
「────」
 正直に告げた臨也を、静雄はひどく驚いた顔で見つめる。当たり前だろうな、と思ったから傷付きはしなかった。
「お前……」
「うん」
 十日前に再会した時、どこで何をしていた、という問いかけに臨也は答えなかった。だが、それはもう二度と会うことなど無いと思っていたからだ。もう自分たちの道が交差することが無いのなら、彼の中に自分のかけらを残すことはしたくなかった。
 しかし、こうして白昼夢のような逢瀬を持てるのなら、意地を張る意味は無い。聞きたいのなら、話したかった。──あの頃、足りなかった言葉の分まで全て。
 だが、臨也がそんな風に思っていることは、当然ながら静雄には伝わらない。やはり言葉が必要だった。
「なんで、そんなに変わった?」
 あの頃のお前は、俺が何と言おうと、まともな言葉を返さなかっただろう。
 そう言われて、そうだね、とうなずく。
「一年半、潮風に吹かれてるうちに毒気が抜けた、っていうんじゃ理由にならないかな」
「手前がそんな可愛いタマかよ」
「あー、それは自信ないな」
 顔をしかめられて、小さく笑う。笑うと、楽しさと少しの悲しさが胸に染みた。
 悲しみといっても、今この瞬間のものではない。過去の残骸だ。三年前、絶望と共に自覚した想いを封印した。その名残が、こうして彼を近くに感じていることで甦ってきただけだ。
 前回、不意に再会した時もそうだった。二人で歩いて話した、ほんの二十分ほどの間、何度も泣きたくなって困ったことなど、きっと彼は気付いてはいないだろう。
 そして改札口で彼を見送った後、とうとう耐え切れずに、海沿いの道を静かに涙を零しながら歩いたことも。
 彼はまだ、知らない。
「──前回、言っただろ。俺が最後の一手を打たなかったのは、君のせいだって」
「……それとこれが、どう繋がる」
 不審げに訊かれて、臨也はまた笑った。今度は単なる苦笑だ。
 静雄は理屈をこねることは嫌いだが、十分すぎるほどに鋭いし聡い。そのことを久しぶりに思い出して、おかしくなった。
 確かに、風が吹けば桶屋が儲かる的な話なのだ、これは。嘘ではないのだが、順を追って説明しなければ、きっと理解できない。
 短気を起こさずに聞いてくれればいいけれど、と思いながら臨也は口を開く。
「説明はしてもいいけど、ちょっと長いよ?」
 その問いかけに静雄が答えるまでには、たっぷり三秒ほどの間があった。
「いい。話せ」
「本当にいいの?」
「聞かなきゃ分かんねぇだろ」
 そう言われて、臨也はまばたく。
「……分かりたいんだ?」
「当たり前だろ」
 きっぱりと言われて、そうなのか、と臨也は、不意にすとんと何かが胸のうちに落ちるのを感じた。
 二人の間に言葉が足りなかったと思っているのは、自分だけではない。彼もなのだ。
 今からでも言葉を尽くしたい。言葉だけではなく、全ての手段を尽くして理解したい。
 どちらもきっと、そう思っている。
 けれど、と臨也は、ちらりと前方に視線を向けた。
「じゃあ話すけど……、その前に、俺の部屋、そこだから」
 話は着いてから、と前方にあるマンションを指差した。
 海沿いの道に面した、白っぽい外壁の南向き七階建て。それほど高級ではなく、そこそこの物件だ。
「……賃貸じゃねぇの、あれ」
「うん。すごいね、分かるんだ」
「見た目が分譲って感じじゃねえ」
「普通、見た目じゃ分からないと思うけど。建物の気配か何か、感じ取ってるの?」
 色々規格外の静雄のことだから、それくらいの特技を持っていても驚かない。そう思いながら、臨也はマンションのエントランスに足を踏み入れる。
 築五年で、まだ新しい物件なのだが、海沿いにあるだけに、外壁やポスト周りは早くも潮風に傷み始めた気配を見せている。しかし、それを除けば小綺麗な造りだった。確か今は、空き部屋もないはずだ。
 エレベーターが開くのを待つ間、階層表示を見上げていた静雄が、ぼそりと尋ねてくる。
「なんで賃貸なんだ。池袋や新宿にいた頃は分譲ばっかだっただろ」
「分譲だと、処分する時に面倒だからね。賃貸なら二、三枚の書類に判子押すだけで終わって、税金の申告も何も要らないから」
 そう答えると、静雄の眉間にしわが寄る。おそらく臨也が、またいなくなることを考えたのだろう。普段は余り彼の考えは読めないが、今は分かりやすかった。
 とはいえ、臨也が言えることは何もない。今ここで、もうどこにも行かないよ、と言ったらそれは嘘になる。いつかまたどこかに行くからこその、賃貸なのだ。
 無論、今はまだ次が決まっているわけではない。しかし、だからといって、何かを約束するのも今は無理だった。
 微妙な沈黙のうちに、二人は上から降りてきたエレベーターに乗り込む。
 そして臨也が階層ボタンを押すと、それを見ていた静雄がぼそりと言った。
「……最上階は最上階なんだな」
「たまたまだよ。俺としては、真ん中より上ならどこでも良かった。まあ、一番上だと上階の物音に悩まされなくて済むから、利点はあると思ってるけど」
「でも、やっぱり一番てっぺんじゃねぇか」
 そう言いながら、ふっと静雄がおかしげに笑う。
 何ということはない、淡い笑みだ。だが、その笑顔に臨也の目は吸い寄せられた。
「どうせ、煙と何とかは高いとこが好きだとか思ってるんだろ」
「当たり前だろ」
 言いながら静雄は微かに笑みを深める。その表情は、臨也が読み間違えているのでなければ、楽しそう、だった。
 その笑みに、臨也は自分の中の何かが凶悪なまでに打ちのめされるのを感じる。
 あの頃の静雄が、臨也の前で笑うことはまずなかった。あるとしても、それは憤りに引きつった凶悪な笑顔で、本当の笑みではなかった。
 けれど、今、目の前の笑顔は違う。目元も口元も、まるで別人のようにやわらかい。
 もっと見たい、と思った。
 この笑顔をもっと見たい。あの頃は決して自分に向けられなかった表情を、もっと向けて欲しい。
 背筋がぞくりとするほどの欲望が急速にこみ上げてくるのを感じながら、臨也は、震えそうになる唇を懸命に動かした。
「シズちゃん」
 たった一言、喉から搾り出すようにして名前を呼べば、うん?と、階層ボタンを見ていた静雄は臨也にまなざしを向ける。
 そして、は、と息を呑んだ。
 自分がどんな表情をしていたのか、臨也には分からない。だが、静雄はひどく驚いた表情を一瞬してから、何とも言えない情感を込めて目を細める。
「いざ……」
 だが、名前を呼びかけたその時、軽やかなチャイムが鳴ってエレベーターが止まった。
 筐体が停止する時特有の小さなショックに続いて扉が開くのを、二人して少しばかり呆気にとられて見つめ、それから小さく舌打ちした静雄が臨也の手首を掴む。
 ぐいと引かれて臨也は逆らうこともかなわず、そのまま二人は連れ立って四角い箱から出た。
「シズちゃ……」
「お前の部屋、何号室だ」
「え、あ、703号室」
 端的に問われ、戸惑いながらも答えると、静雄は無言で臨也の腕を引いて、そのドアへと向かう。そして、正面で立ち止まった。
「開けろよ」
「あ、うん」
 何が起きているのか分かりそうで分からない、けれど本能的に理解している、そんな地に足の着かないような感覚の中、慌てて臨也はジーンズのポケットから鍵を取り出す。そして、鍵穴にそれを差し込もうとして、自分の手が微かに震えていることに気付いた。
 それを強引に押さえ込んで、鍵を開錠する。
 震えは、決して恐怖からくるものではない。恐れが少しもないといえば嘘になるかもしれないが、恐怖そのものではない。だからそれは無視して、鍵を抜き、洒落た形状のドアノブを半回しして明けると、点けたままにして出た照明のせいで明るい玄関内の空間が二人が出迎えた。
 そして、金属製のドアが閉まるか閉まらないかのうちに手首を更に引き寄せられ、唇が重なる。
 喰らい付くような貪るようなキスだった。
 唇と歯列を割り開かれ、侵入して縦横無尽に暴れる舌に無我夢中で臨也も応え、首筋に両腕で縋り付いて、がくがくと震えて崩れそうになる下半身をかろうじて支える。と、静雄の力強い手にぐいと腰を引き寄せられ、隙間なく重なり合った体温に更に体が震えた。
「シ…ズちゃん」
 酸欠寸前で意識が遠くなりかけた頃にやっと開放され、痺れて呂律の回らない舌で懸命に名前を呼ぶ。すると、獰猛な光を宿して目を細めた静雄に、もう一度口接けられた。
「──っふ…ん……っ」
 濃厚に舌を絡められ、執拗なまでに口腔を探られて、今度こそ本当に膝が崩れる。だが、静雄の腕がそれを許さなかった。
 腰を抱いた腕はそのままに、膝裏にも反対側の腕が差し込まれて、足がふわりと宙に浮く。
 何が起きたのか、状況を臨也が理解したのは、静雄がそのまま靴を脱いで室内に上がりこみ、奥の部屋を目指して数歩進んでからだった。
「シ、シズちゃん!」
 下ろして!、と思わず声を上げる。
 姫抱っこで移動、だなんて、夢見る若い女の子ならともかくも、あと少しで三十歳になろうという男がされて嬉しいことではない。しかし、暴れようとした手足は、その前に唇に噛み付くようにして落とされたキスに封じ込まれた。
 敏感な顎裏を舌先で擽られて、臨也は反射的に目を閉じる。
 そして程なく、やわらかくもしっかりした感触の上に、ぼすんと仰向けに置かれた。
 そこでやっと唇を解放されて、目を開けた臨也は、いつもベッドの上から見る天井とは違うクロスにまばたきする。
「ちょ…っと、なんでソファーなわけ!? ベッドはあっち! そのドア開けたら寝室だってば!」
「うるせぇな。ンな余裕あるか」
「嫌だよ! このソファーは気に入ってるんだから、汚れたら困る!」
「そんなん、後から拭き取りゃいいだろ」
「このソファーは革だよ!? レザー! 染みになったら落ちないんだってば!」
 こうなるだろうということは、改札口で相手の目を見た時から分かっていた。そもそも甘ったるい雰囲気を作れるような自分たちではない。殺し合うにしても愛し合うにしても、喰らい付いて、貪る。そういうやり方が似合いの二人だ。
 だが、こんな勢いで盛られるとは、さすがに思っていなかった臨也は、少々パニック気味に要求を繰り返した。
「嫌だとは言ってないんだから、とにかくベッドに行ってよ!」
「面倒くせぇ」
「じゃなくて、ここでやる方がよっぽど面倒だろ! 寝室ならローションもあるから……」
 そう言いかけて。
 はっと臨也は口を閉じる。そして、恐る恐る自分に覆い被さっている静雄を窺えば、鳶色の瞳は恐ろしいほど獰猛にぎらついて、臨也を見下ろしていた。
「──随分と用意周到じゃねぇか、臨也君よぉ」
「……そりゃあ俺だって、好き好んで痛い思いしたいわけじゃないからね。自衛はするよ」
「へえ」
 低くうなるように応じた静雄は、片手を臨也の細い顎にかけて、くいと挑発的な角度を作る。
「この三年間、その調子で他の男とも寝てたとか言うんじゃねーだろうな?」
 サングラスをかけていない素の瞳にねめつけられて、臨也は一瞬、頭の中が真っ白になった。
 ───他の男と。
 寝る?
「───っ!」
 その言葉の意味を理解した次の瞬間、臨也は意識するよりも早く、目一杯の力を右手に込めて静雄の頬を張り飛ばしていた。
 パン!、と強い音が室内に響き渡る。
 無論、臨也の張り手程度では静雄には何らダメージを与えることはできない。衝撃に目を細めたものの、それだけだった。
 が、下から睨みあげる臨也の表情に気付いた途端、静雄の表情は変わった。
「おい……」
「そんな風に思ってたわけ? 三年前も?」
 吐き捨てるように臨也は問いかける。
 頭の中が沸騰するように熱く、感情も言葉もまとまらない。ただ目の前の男を、滅茶苦茶になじって、滅茶苦茶に殴りたかった。相手の肌に傷をつけるより前に、自分の手が壊れるだろうがそれでも構わない。
 それだけ許せないことを、静雄は言ったのだ。
 三年前、臨也が抱かれる側として身体を開いたのは静雄が初めてだったし、その後も、他の誰とも寝たことはなかった。
 そもそもノーマルな性向を持っていた自分が、男と寝るということ自体、異常なのだ。そんな真似は、相当おかしな状況でなければできるはずも無い。──たとえば、寝ても醒めてもたった一人の相手のことを考えて気が狂いそうになっているとか、そんな常軌を逸した状況でもなければ。
 なのに、よりにもよって、他の男とも寝ていたのか、だとは。
 視線で殺せるのなら殺したいと睨み上げる目元が熱いのは、気のせいだ、と臨也は自分に言い聞かせる。
 こんなことで泣きたくなるなんて、絶対に有り得ない。ただ、相手の侮辱に腹が立っているだけだ。
 しかし、もっとなじってやりたくても、これ以上口を開いたら言葉ではない、認めたくはないが、嗚咽とか何とかそういった音声が出てしまいそうで、臨也はギリ…と奥歯を噛み締める。
 そうして、どれほど睨み上げていたのか、呆気にとられたまなざしでこちらを見つめていた静雄が、ふっと鳶色の瞳に浮かぶ光を和らげた。
 顎先を捉えていた手が離れて、その長い指の背が、そっと臨也の頬を撫でる。
「──思ってねぇよ」
 頬の上を滑る指は温かく、少しだけかさついた感触で、宥めるように謝罪するようにゆるゆると動いて。
「そんなこと、一度も思ったことねえ。……悪かった」
 勢いで心無いことを口走ったのだと、詫びるようにそっと唇が重ねられる。
 触れるだけで離れたその温かくてやわらかな感触に、臨也はぐっと歯を噛み締めた。そして数回呼吸を整えてから、口を開く。
「だったら、ベッドに連れて行ってよ。三年振りなのに、こんなとこでやろうなんてケダモノすぎるだろ」
「……仕方ねぇな」
 静雄にしては弱いトーンでそう呟き、臨也の上からどく。そして先程、ここに来た時と同じように抱き上げようとしかけて、静雄はふと気付いた顔になり、臨也の足首に手を滑らせて履いたままだった革靴の紐を軽くほどいた。
 靴がフローリングの床に落ちる少し重い物音に、臨也は顔をしかめる。
「靴くらい玄関に持っていってよ……」
「後でな」
「あとさ、もうすぐ三十の男相手に姫抱っこってどうなの」
「阿呆。俺の身長を考えろ。肩に担いだら、戸口にぶつかんのは手前だぞ」
「別に担げとは言ってないだろ」
 別に抱いて連れて行けとも言っていないのだが、と臨也は思うが、それ以上の口論も馬鹿馬鹿しくて、大人しく静雄の腕に体重を預ける。
 細身とはいえ身長が百七十五センチもあれば、当然ながら体重は六十キロ近い。だが、それをものともしない膂力の持ち主なのだ。おまけに脳ミソは野性の本能に忠実とくれば、抵抗しても疲れるだけだった。
 こんなの相手に、よく十年近くも戦い続けたよな、と若かった自分に今更ながら呆れつつ、軽々と運ばれて先程よりも丁寧にスプリングの良いベッドの上に下ろされる。
 そうして臨也は、改めて静雄を見上げた。
 あの頃何度、この角度でこの顔を見上げただろう。三年という月日は、この男を何か変えただろうか、と思いながら見つめるが、整った顔立ちが幾分の精悍さを増した、という以外は何も見つけられなかった。
「臨也」
 深く響く低めの声も変わらない、と思いながら、下りてくる唇を目を閉じて受け止める。
 そして今日、数度目の深いキスをかわして、あれ、と臨也は気付いた。
「シズちゃん、煙草やめた?」
 目を開けて、問いかける。
 深く舌を絡ませても、粘膜を刺すような苦いニコチンの味と匂いがしない。そんなことは、かつては決してなかった。
 だが、問いかけた臨也から、静雄はふいと目を逸らす。
「禁煙したわけじゃねぇよ。……でも最近は吸ってねえ」
「……なんで」
 煙草を吸っていないということと、目を逸らしたというその二点に疑問を感じて、臨也はまばたきする。
 すると、静雄は微妙に目を逸らしたまま、続けた。
「十日くらい前に買い置きが無くなったんだよ。その後、新しい奴を買うの忘れてた。もともと苛ついた時の気分転換くらいの意味しかなかったしな。無きゃ困るってもんでもねえし」
 気分転換用なら、無いと困るのではないか。些細なことでキレる性格も、取立ての仕事も変わったわけではないし、と更なる疑問を口にしかけて、臨也は、はっと気付く。
 十日くらい前、と静雄は言った。
 自分たちが再会したのは、十日前だ。その日付と、苛つく云々に関連があるのか否か。ある、と考えるのが自然なのだろう。話の流れを考えるならば。
 じわりと何かが込み上げるのを感じながら、臨也はそっと手を上げる。
 相変わらず金に染めた髪は、三年前と変わらず少し傷んだ感触で、指で梳くようにすると僅かに引っかかった。
「──服には煙草の匂いが残ってるから、キスするまで気付かなかったけど。煙草味じゃないキスなんて、シズちゃんとのキスじゃないみたい」
「……不満かよ」
「ちょっとね」
 でも嫌いじゃないよ。煙草の味の変わりに、君の味がするから。
 そう告げて、臨也は静雄の頭を引き寄せ、今度は自分から噛み付くような口接けをした。

to be continued...

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