DAY DREAM -Sweet Tears - Side:Izaya

 一気にマンションのエントランスホールまで駆け込んで、やっと臨也は息をつく。
 JR新宿駅西口からここまでは、徒歩で十分弱、走れば五分程度の距離である。そして、本来、長距離ランナー型の臨也にしてみれば、どうということもない距離だった。
 持久力に優れた痩せ型の肉体は、エレベーターを待つ間の深呼吸一つで、少しだけ乱れた呼吸も整い、心拍数も直ぐに下がってゆく。
 むしろ、生来の資質としては左程優れてもいないために、意図的に鍛えた瞬発力を駆使しなければならない池袋での鬼ごっこの方が、よほどに疲れる運動だった。
 単に長い距離を走るだけなら、静雄にだって簡単には負けない自信はある。だが、瞬発力が無ければ、あの体力馬鹿からは逃げ切れない。
 また、静雄以外にも諸々の敵を抱えていることもあって、高校時代から逃走経路を確保するために池袋の建築物を完璧に頭に叩き込み、果てはパルクールの技術まで習得したのである。
 実も蓋もない言い方をすれば、どれもこれも、情報屋として裏社会で暗躍するための逃げ足の鍛錬であり、苦肉の策だった。
 しかし、今夜は別に誰に追いかけられているわけでもないのに、持ち前の持久力を発揮する羽目になったのは。

「本っ当にシズちゃんって最悪!!」

 当の天敵、だけとは最近、言い切れなくなった男のせいだった。
 自分の部屋に入った瞬間、臨也は怒鳴るように毒付く。
 このマンションの良いところは、築年数が少しばかり古い代わりに防音は完璧なことだった。多少の大声を出したところで、隣りには決して聞こえない。
 加えて、盗聴器や隠しカメラのチェックは常にしているから、どこかの誰かに盗み聞きされる可能性もない。
 だから、遠慮なく臨也は、天敵であり恋人でもある男を罵倒した。

「一体何様のつもりなわけ? 毎回毎回、池袋に来るなとか、偉っそうに……!」

 八つ当たり気味にコートを脱ぎ、ソファーに投げつけて、自分もその隣りに腰を下ろす。
 先程の会話を思い出せば思い出すほど、ムカムカしてたまらなかった。

「それまで散々、人のこと可愛いだのそのままでいいだの言っておいてさ。池袋に行くって行った途端、手のひら返すなんて……!」

 別に嬉しそうな顔をして欲しかったわけではない。
 自分の過去の悪行は分かっているし、彼がどれ程池袋の街を大事にしているかも分かっているから、そんなことを期待するほど馬鹿でもない。
 ただ、「そうなのか」とうなずいてくれれば良かったのだ。
 そして、「あんまり悪さばっかりすんなよ」くらいの言葉をかけられたのであれば、自分とてここまでは腹を立てなかっただろう。
 それなのに。

「頭っから、俺がえげつないことすると決め付けてさ。実際、その通りだけど!」

 手のひらを返された以上に、見透かされているのが悔しくてたまらない。
 何故なのだ、と思う。
 どうしてあの男には、全部分かってしまうのか。

「本当にムカつく……!!」

 今日だってそうだ。
 一体何度、あの男は見透かしたような言葉を口にしたか。
 今固まってただろ、とか、どうせ口コミサイトとかで色々調べたんだろ、とか。
 その挙句。

 ───この先、お前が口先で何を言おうと、俺は絶対にお前を見限ったりはしねえから。
 ───馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ、臨也。俺がいつ、手前に素直になれなんて言った?
 ───言ってねぇだろ? 手前はそのまんまでいいんだよ。

「───…っ」

 駄目だ、と思った。
 思い出したら駄目だ。
 思い出したら、もう。

 止まらなく、なる。

「──クソっ…、なんで…俺が、あんな言葉なんかで……っ…」

 抑え込んでいた幾つもの想いが。
 溢れ、出して。

「シ…ズ、ちゃん……っ」

 ───無理なんかすんなよ。言いたいことは言えばいいし、ナイフで切り付けたいんなら、そうすりゃいい。
 ───手前如きにどうこうされる俺じゃねえし、今更、そんなことくらいでお前に愛想を尽かしたり、嫌ったりなんかしねえよ。

「シ…ズちゃん、シズちゃん、シズちゃん……!」

 ずっとずっと好きだった。
 この想いがいつから始まっていたのかなんて分からない。
 一目合った時から反発し合い、心底嫌いだと思っていたのに、気がついたら心の全てが平和島静雄で占められていた。
 世界でたった一人の存在を、独り占めしたくて、こちらを向いて欲しくて。
 けれど、何をどうやっても自分を見てくれることはなくて。

 やり方を間違えていることは、最初から分かっていた。
 静雄は鏡のような男だ。馬鹿正直に攻撃には攻撃を、好意には好意を返す。
 そんな相手にナイフや不良の大群を差し向けて、やわらかな反応が返って来るはずが無い。
 だが、そういうやり方しかできなかった。
 優しく素直に、なんて反吐の出るような真似をするくらいなら、葱で喉を突いて死ぬ方が遥かにましだった。
 だから、平和島静雄は、折原臨也を一生、正面から見ようとはしない。
 そんな日は、世界が滅亡するまで決して来ない。
 ずっと、そう思っていたのに。

 ───悪かった。これまでお前をきちんと見てやらなくってよ。目を背けるばっかじゃなくて一歩踏み込んでりゃ、もっと早く分かってやれたのにな。

「……っ、く……、シ…ズちゃ……っ」

 本当に本当に大好きで。
 傍に行きたくて、でも、どうしても普通のやり方はできなくて。
 せめて自分のことを世界で一番嫌いならいいと思ってはみても、自分を見てはもらえないことは、どうしようもなく苦しくて。
 八つ当たりするようにひたすらに攻撃をエスカレートさせれば、悪循環は大きくなるばかりで。
 疲れ果てて、一旦、池袋を離れてはみたものの、何の解決にもならなくて。

 ただ、苦しくて、苦しくて。

 それなのに。

 ───お前に俺の『特別』をやるよ、臨也。

「シズ、ちゃん……っ…」

 そんな言葉をもらえるなんて、想像したこともなかった。
 愛してもらえるなんて、考えたこともなかった。
 なのに、こんなに滅茶苦茶ばかりしてきた自分を、そのままでいいだなんて。
 素直になれないままでも、いいだなんて。

 そんな言葉、夢にすら、見たことはなかった。

「あ…りが…と……、」

「ありがと、シズちゃん……」

 目の前に居たら、悪趣味だとか馬鹿じゃないのとか、そんな言葉にしかならない。
 面と向かっては決して伝えられない言葉。
 それを嗚咽交じりに呟きながら、傍らに投げ出したコートのポケットを探って、携帯電話を取り出す。
 そして、震える指先で、四文字を打ち込んで。
 けれど、それでもやはり、そのまま送信はできなくて、幾つかの言葉と大量の余白を追加する。

 後悔するだろうと思った。
 こんなメールを送ってしまったら、きっと直後に死にたくなる。
 けれど。
 それでも。

 震える指で、送信ボタンを押す。

 気付いてもらえなくても良かった。
 冒頭の言葉に怒って、メールを削除してしまうのなら、多分、それが一番いい。
 ただ、自分が伝えたかっただけなのだ。
 なけなしの素直さをかき集めた、たった一つの言葉を。
 彼のところに届けることができたら、それでもう良かった。

 なのに。

「!?」

 不意に携帯がメール着信を知らせて震え、心底驚く。
 そして画面を見てみれば、間違いなく、たった今メールを送った相手で。
 おそるおそる画面を開いてみれば。

「───最っ低……!!」

 かあっと頭に血が上る。
 その勢いで返信メールを打ち込み、即座に送信して。
 携帯電話をソファーの上に投げ捨てる。

「シズちゃんの馬鹿! 平和島静雄の大馬鹿野郎!!」

 叫び、クッションを投げ付けて。
 それから、頭を抱えた。

「──どうして気付くんだよ、毎回毎回……!!」

 でもおそらく、あの化け物は野性の本能で、毎回、自分の感情の揺らぎに気付いてしまうのだろう。
 その度に、きっと小さく笑ったり、困ったりしながら、抱き締めてくれる。
 泣いてんじゃねぇよ。
 そう言いながら、きっと優しいキスをして、宥めて。
 どこまでも、このどうしようもない人間を甘やかそうとする。

「本っ当に馬鹿だろ、シズちゃん……」

 自分のような人間を愛したところで、いいことなど一つもないのに。
 きっと幸せになんか、なれないのに。
 何一つ自分は返せないのに、彼は単細胞らしい単純さで、ひたすらに優しくしようとする。

 けれど。

 ───俺は、お前が俺を嫌ってないんなら、もうそれだけでいい。

 嫌われていないのなら、もうそれだけでいいと思うのは、自分も同じだから。
 世界に何十億の人間がいようと、欲しいのは彼だけだから。
 この先も、彼が自分を見てくれるのなら、もうそれだけで。
 全てが満ち足りる、から。

「俺の、大事な、大好きな、シズちゃん」

 そう呟くと、また大粒の涙が零れる。
 けれど、それをもう拭いもしないまま。
 大好きな人がくれた幾つもの宝石のような言葉を胸に抱き締めて、目を閉じた。  

End.

どうしても臨也Sideを書きたかったので、オマケです。

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