DAY DREAM -Sweet Tears 02-

 結局、臨也が気付いたのは、夜十時頃だった。およそ二十四時間、眠っていたことになる。
 よくもそれだけ眠れるものだと感心しながら、寝起きのぼんやりとした顔を眺めていると、シズちゃんなんか嫌いだ、と臨也が呟いた。
「起きた途端、それか? 御挨拶だな、ノミ蟲君よぉ?」
 呆れながら言うと、驚いたように臨也はまばたきし、ひどく不思議そうな顔をこちらに向ける。
「……シズちゃん?」
「おう」
 名前を呼ばれて返事をすると、臨也はこちらを見つめたまま、じっと押し黙る。記憶の整理をしているのかと見当をつけて待っていれば、何かに思い当たったのか、不審げに細い眉がひそめられた。
「……新羅のとこに連れてくって言ってなかったっけ?」
「何だ、覚えてんのか」
「シズちゃんがそう言ってたとこまで。何がどうなって、俺はこんなとこにいるわけ? ここ、シズちゃんの部屋だろ」
「新羅のとこには連れてったぜ。でもあいつが、うちには入院設備はないとか何とか言い出しやがってよ。手術台の上なら寝かせておいてやらなくもないけど、布団はないから、こじらせて肺炎起こすかもとか言われちまったら、仕方ねぇだろ。あいつんちから、ここまでは直ぐだしよ」
 改めて、ここに連れてきた意図を問われると、らしくないことをしたという後悔のような、面映(おもはゆ)さのような感覚が襲ってくる。
 新羅の言った通り、新宿のマンション前に捨てておく方が賢かったか、と思った時。
「──なんで、その辺に捨てておかなかったのさ。野垂れ死んだら、化けて出てやったのに」
 顔をしかめて臨也が言い返してきて。
 その可愛げの欠片もない物言いに、静雄は、ここに連れてきたもう一つの理由を思い出した。
「話が途中だっただろ」
「話?」
 何のことだと一瞬迷った臨也の瞳が、すぐに合点したように鋭さを帯び、小馬鹿にしたような目つきで静雄を睨んでくる。
「俺が意識を失う前にしてた話なら、続きなんかないよ。あれで終わり。どうでもいいことだから、忘れてよ、シズちゃん。それに、どうせ直ぐ忘れちゃうだろ、その皺の少ない、つるんつるんの脳味噌じゃさ」
 いつもと同じく挑発的な言葉だったが、しかし、それは返って静雄を冷静にさせた。
 どうでもいいことじゃねえだろ、と心の中で思う。
 臨也の表情は、これまでの八年間で散々に見てきた。だが、昨夜の表情は初めて目にしたものだったと断言できる。
 追い詰められたような目の色も、街明かりに悲痛に光った涙も。
 ───俺はずっと苦しかった。今だって苦しい。
 ───俺はどうしたらいいんだよ、シズちゃん。
 熱に浮かされていたからこそ、零れ落ちた本心。
 本当の言葉。
 そう感じたからこそ、静雄は臨也をここに連れてきたのだ。
 そして、考える時間はたっぷりあった。
 丸二十四時間、臨也の看病をしながら時折うつらうつらとする以外は殆どの間、このことを考えていた。
 そうして、自分はどうするべきか、臨也が目覚めたら何を言うべきか、ずっと自問していたのだ。
「──あのな、臨也」
 自分が出した結論を、どんな風に伝えたものかと迷いながら手を伸ばして、臨也の髪に触れる。
 わしゃわしゃと掻き混ぜてやると、癖のない髪は素直にさらさらと言いなりになった。
「そういう物言いすんなら金輪際、構ってやるもんかと思っちまうだろ。馬鹿か、お前は。つーより馬鹿なんだな、マジで」
 そう言うと、途端に前髪を掻き混ぜていた右手を払い落とされる。
「馬鹿馬鹿って連呼しないでくれる!? ていうより構ってやるって何だよ! シズちゃん何様のつもり!?」
 おそらく、というよりも間違いなく臨也は挑発したつもりだろう。だが、昨夜の表情を見てしまった後では、もう腹は立たなかった。
「馬鹿を馬鹿っつって何が悪い」
 溜息混じりに告げると、更に臨也は眦(まなじり)を吊り上げる。
「全部悪いよ! そもそも俺の何が馬鹿なのさ!?」
「全部だろ。自分の方を向いて欲しくて、ナイフで切りつけるなんざ、どう考えたってまともじゃねぇだろうが」
「っ……!」
 図星を指してやると、ぐっと黙り込んだ。
 まなざしばかりは射殺しそうに凶悪だったが、頬はうっすらと上気している。熱の名残もあるだろうが、決してそればかりとは思えない。
 この馬鹿に、さて何と言ったものか、と思った時。
 不意に、臨也が何かに気付いたかのように表情を変えた。
「ねえ、シズちゃん。全然話変わるけど、今、何時?」
「あ? ああ」
 唐突に聞かれて一瞬戸惑うが、しかし、自分がどれくらい意識を失っていたのか気になるのは当然のことだろうと納得し、静雄は後ろを振り返る。
 そして、コンセントに刺さったままの充電器ごと黒い携帯電話を手元に引き寄せ、それを充電器から外した。
「あれ、それって俺の携帯?」
「ああ。ひっきりなしに着信してブルってたからな、今朝方、それが充電切れ起こしてピーピー鳴る音で俺は起こされたんだぜ。壊さなかったことを感謝しやがれ」
 正確に言えば、臨也の寝ている布団の横でうつらうつらとしていたところで鳴り出しただけだったから、壊さずに済んだのである。
 熟睡している時だったら、力加減を間違えて粉々に潰していたかもしれない。早寝早起きタイプの静雄は寝起きは良いが、その分、眠りは深いために、寝惚けて携帯電話や目覚まし時計を壊したことが過去に何度かあるのだ。。
 だが、ほぼ徹夜で看病してやったのだとは何故か言いたくなくて、それ以上は何も告げずに携帯電話を軽く放る。
 すると、布団に寝転がったまま器用に片手で受け止めた臨也は、スライド式のそれを開き、目を丸くした。
「七日の二十二時って……、俺がシズちゃんと会ったのって六日じゃなかった?」
「おう。そろそろ二十四時間、経つな」
「嘘……。俺、丸一日、寝てたの?」
「そうだ。新羅は、ただの風邪だと言ってたぜ。あと不摂生が何とか。栄養が偏って、失調気味とかとも言ってたな。どうせ無茶苦茶な生活してたんだろ」
「──まあ、ねえ。あんまり健康的じゃなかったかもね、最近忙しかったから」
「健康的じゃねえから風邪引いてんだろうが」
 できた両親の教育の賜物で、忙しくとも三食きちんと摂り──栄養バランスに関しては少々いい加減だが──、睡眠も最大限確保する主義の静雄は、けろりと不摂生を肯定する臨也に心底呆れながら立ち上がる。
「? シズちゃん?」
「ちょっと待ってろ」
 どうしてここまで面倒を見てやらなければならないのかと思うが、二十四時間眠っていたということは、その間、飲まず食わずということだ。加えて、熱を出すのも汗を掻くのも、ひどく肉体を消耗させる。
 目の前に居る以上は、たとえノミ蟲でも何かしらしてやらねばやらないだろうと、半ば悟りの境地で、静雄は昨夜のうちにひえぴた等と一緒に買ってきたレトルトの粥を器に開けて、電子レンジに押し込んだ。
 一人暮らしが長いだけに一応の料理はできるし、粥でも雑炊でも作ってやれるのだが、それだとこの捻くれ者は手を付けようとしないかもしれない。そう懸念した結果の、手抜きだった。
 そうして電子レンジの中で回る器を眺めながら、あれ、と静雄はあることに気付く。
 ───ノミ蟲の奴、帰るって言い出さねえな。
 非常事態とはいえ、ここは静雄のアパートである。
 臨也にしてみれば、ここに運び込まれたというだけでも屈辱だろう、目が覚めたら即、タクシーを呼んで新宿に帰るに違いない。そう思っていたのに、臨也はあれこれ文句はつけているものの、未だに布団に転がっている。
 ちらりと振り返って様子を窺えば、先程と同じく、布団に仰向けになったまま携帯電話を弄っており、今すぐ帰りそうな気配は微塵もなかった。
 どういうことだ、と思うが、電子レンジの温め完了を知らせる電子音に思考は中断される。
 だが、もやもやとしたものは胸の中に立ちこめており、内心で首をかしげたまま、静雄は粥の入った器を手に、奥の部屋へと戻った。
「食欲ねぇだろうが、ちょっとは腹に入れとけ。でないと、またすぐに熱がぶり返すぞ」
「へ?」
「レトルトのやつを温めただけだけどな。食わねえよりはマシだろ」
 布団の横においてやった器を、寝転がった姿勢で片手に携帯電話を持ったまま臨也は穴が開くほどに見つめ、それから畳の上に胡坐をかいた静雄を見上げる。
「……まさかと思うけど」
「ぁん?」
「俺のために、買って来てくれたとか……?」
 有り得ない、と表情全体が言っている問いかけのウザさに、静雄は鎮まっていたノミ蟲相手の苛立ちがむくむくと起き上がってくるのを感じた。
 自慢ではないが、静雄は物心ついて以来、病気一つしたことがない。そんな男の独り暮らしの家に、レトルトの粥が常備されているはずがない。
 当たり前だろうが!と怒鳴りたい気分を、しかし、相手は病人なのだし、別にノミ蟲相手に恩を売りたいわけでもない、と抑え込み、極力素っ気なく言い放った。
「他に病人に食わせられるものなんかねぇだろ。いいから、とっとと食え」
 だが、その気遣いは臨也にとっては無用の長物だったらしい。
「全然よくなんか……っ、」
 反論しようと声を上げながら勢いよく臨也は起き上がる。が、しかし、すぐにその目は焦点を失い、ぐらりと体が揺れた。
「馬鹿か。昼頃まで熱にうなされてた奴が、そんな簡単に動けるようになるかよ。ったく……」
 かろうじて布団に両手をついて体を支えた臨也に、呆れながらも静雄は手を伸ばし、落ち着かせるように背を撫でてやる。
 手のひらに、細い骨組みの上にしなやかに鍛えられた筋肉が薄く張り詰めている感触を感じ、マジで細ぇな、と心の中で一人ごちて。
 次の瞬間、自分は何をしているのかと我に返った。
 どうやら自分は、病人や怪我人にはとことん弱いらしい、と自分で自分にそう呆れた時、
「シ、シズちゃん」
 かすかに震える臨也の声が、静雄を呼んだ。
「何だよ」
「俺の服は……?」
「ンなもん、昨夜のうちに手前の汗でぐしょぐしょになっちまったから、今朝、洗濯機に放り込んだぜ。ったく、感謝しろよな」
 それらは既に、自分自身の洗濯物と共に取り込み、畳んである。
 我ながら、どうしてこうも面倒見がいい真似をしているのかと、幾度目かとも知れない溜息を覚えるが、臨也の受けた衝撃は、そんな生易しいものではなかったらしい。
「ちょっと……待ってよ、シズちゃん」
「あぁ? 何がだ」
 異様に低い声で呼ばれ、まなざしを向ければ、臨也はひどく険しい目つきでこちらを睨みつけていた。
「一体、君は何してんだよ。熱出してフラフラの俺にとどめを刺すどころか、新羅のところに連れて行って、うちにお持ち帰りして、看病して、着替えさせて、食べるものまで用意して……。こんなのおかしいだろ!?」
 語気荒く言われて。
 確かに、と静雄は思う。自分のしていることは、これまでのことを考えれば一から十までおかしい。
 だが、間違っているとも思わなかった。
「まぁな。昨日までだったら、気でも狂わない限り、俺はこんなことはしなかったと思うぜ」
「だったら何で……!」
 問い詰めかけた臨也の声が不意に途切れ、静雄の見つめる前で、は、と臨也は表情を硬直させる。
 未だ下がり切らない微熱と興奮とに上気していた頬が、見る見るうちに白く血の気を失ってゆき、そのまるで怯えたような蒼白の無表情の中、切れ長の瞳が恐ろしいものでも見るかのように静雄を凝視した。
 臨也がこんな表情を浮かべることがあるのかと内心で酷く驚きながらも、その視線を静雄は真っ直ぐに受け止める。
 ───どうして、手前はそんな顔をするんだよ?
 ───俺に言いたいことがあるんだろ。死ねとか嫌いだとか、そんな耳タコの言葉以外に。
 ───だったら、それを言えよ。今なら聞いてやるからよ。
 幾つもの思いが胸のうちに浮かび上がるのを感じながら、正念場が来たのだと直感的に悟って、ゆっくりと言葉に力を込めて告げる。
「俺なりに考えたんだよ。手前の言ってたことをよ。結局、手前は何をしたかったんだ、俺にどうして欲しかったんだ、ってな」
 そう言葉に乗せれば、臨也のまなざしは更に引き攣る。
 らしくもないその表情は、まさに手負いの獣そのものだった。
「な…んで、そんなこと考えるんだよ。必要ないだろ。君は化け物で、君にとっての俺はノミ蟲で、それでずっとやってきたじゃないか。今更何を……」
 怯え、それでも虚勢を張りながら逃走する隙を探っている。
 その往生際の悪さはまったくもって臨也らしかったが、それを許す気には静雄にはなかった。
「そうだな。俺もそれしかないと思ってた。──でも、違うんだろ。それじゃ嫌なんじゃねぇのか。少なくとも、俺には昨夜、そう聞こえたぜ」
 一言一言告げるたびに、臨也の目に浮かぶ色は追い詰められてゆく。
 その色に、本来こうして相手を追い詰めることを好まない静雄の心に少しだけ憐れみの情が湧くが、しかし、少しでも追及の手を緩めれば、臨也は今度こそ静雄がどう手を伸ばしても届かない虚言と詐略の彼方へと逃げてしまうだろう。
 そうなってしまったら、もう二度と、彼の本心を確かめる機会はない。
 それだけは、どんな手段をもってしても避けたかった。
 昨夜の臨也は、静雄に向かって積年の恨みつらみを吐き出したが、静雄とて、このいがみ合うばかりの関係にはとうにうんざりしていたのだ。
 もし、それを変えられるのなら──臨也もそれを望んでいるのなら、その機会は絶対に逃したくない、と腹の底から強く思う。
 だが、そんな静雄の前で、臨也は必死に逃げを打とうと足掻いた。
「あれは熱でどうかしてただけで……!」
「熱で本音が出た、の間違いだろ」
「本音? そうかもしれないね、それくらいは認めてもいいよ。でも勘違いされたら困る。俺は別に、君と普通の関係になりたいわけじゃないんだ。俺が何をしても君は傷付かないことの不公平を、どうにかしたいだけなんだよ。
 君は俺の愛する人間じゃない。化け物の君と仲良くお手々繋いで、お友達ごっこしたいわけじゃないんだ!」
 一息に言い切り、大きく乱れた吐息を吐き出す。
 そして、殺しそうな勢いで睨んでくる瞳を、静雄は真っ直ぐに見つめ返した。
「昨夜も言ってたよな、普通なんか面白くも何ともねえってよ」
「言ったよ。俺は普通なんか欲しくない。君と馴れ合うことは勿論、友達になる気なんか、これっぽっちもないんだ」
 その言葉を聞き、まるっきり手負いの獣の虚勢だと思いながら、静雄は溜息をつく。
 ───先に、変わりてぇってシグナルを出したのは手前の方だろうが。
 昨夜、苦しい、どうすればいいと臨也は涙ながらに訴えた。
 それはつまり、これまでの関係では嫌だ、ということだと静雄は受け止めた。
 臨也が静雄を嵌め、静雄が怒り狂う。この八年余りの間、ずっとそれを繰り返してきたが、それでは足りないのだと……そんなものだけでは本当は嫌なのだと、臨也の涙は訴えているように見えた。
 それは静雄にとっては大きな驚きであり、だから、臨也が本当は何を望んでいるのかについて、初めて本気で考えたのだ。
 出会ってから今日までのことを思い出せる限りに思い出し、蘇る腹立ちを熱にうなされる臨也の寝顔を眺め、昨夜の涙を思い出すことで宥めながら、臨也の表情の一つ一つ、言葉の一つ一つを順番に並べてみた。
 そして、気付いたのだ。
 臨也が他人を悪辣なやり方で誘導し、右往左往する様を見て楽しむ悪癖の持ち主であることは十分過ぎるほどに知っている。
 だが、静雄に対してだけは、やり方が違う、ということに。
 面白そうな獲物を見つけては行動を示唆して、右往左往する様を楽しむのが『普通』のやり方だとすれば、静雄に対しては、手を変え品を変え、ひたすらに攻撃を繰り返すだけで、そこには楽しむという要素がない。
 むしろ、異様な強度を誇る静雄の肉体に企みを阻まれ、歯噛みしているのはいつも臨也の方なのである。
 恐ろしくプライドが高く、負けることを極端に嫌う臨也が、何故、八年間もそんな屈辱に甘んじているのか。
 平和島静雄など眼中にないと無視してしまえば、静雄も臨也のことなど気に留めない。それで全て済んでしまうのに、臨也はそうしない。
 勝てる見込みなど限りなくゼロに近いのに、それでも諦めない。
 そうして臨也が向かってくる限り、静雄も彼の方を向かざるを得ない。
 それが意味するところは、昨夜も直感した通りに、おそらく一つしかなかった。
 ───本当に手前、馬鹿だろ。
 幾度目かとも知れない溜息をつきながら、ゆっくりと静雄は口を開く。
 好き放題に言ってくれたが、こちらにも言いたいことは山のようにあるのだ。
「手前、何か勘違いしてねぇか」
「……何が」
「一体、俺のどこに普通があるっつーんだよ。あるっていうんなら、それを教えてくれ」
「え、……」
「手前の言う普通ってのは、たとえば一緒に飯を食いに行ったり、どうでもいいことでメールや電話をしたりすることなのか? だったら、俺がそんなことをするのは幽か、トムさんくらいのもんだ。でも幽は家族だし、トムさんも世話になってる先輩で、俺にとっては『特別』で、普通でも何でもねえ」
 そこまで言って、静雄は顔を上げる。
 そして、真っ直ぐに臨也の瞳を捉えた。
「俺には普通なんて、一つもありゃしねえ。ダチなんざ、居たためしがねぇし、この力を自覚してからは、誰かの家に遊びに行ったこともねえ。やっとこの歳になって、トムさんと夜通し飲んだりとかの馬鹿ができるようになったところだ」
 正面から射すくめられて、臨也は身動き一つできないまま、静雄の言葉を聞く。
「俺にとっちゃ、手前の言う『普通』が『特別』なんだよ。俺がどれだけ『普通』を欲しがってるか……、一番知ってんのは手前じゃねえのか、臨也」
 そう言い、少しだけ反応を待ったが、臨也は小さく唇を噛み締めて視線を逸らし、顔をうつむけただけで、何も言い返さなかった。
 言い返せるわけがないのだ。先程までは何をトチ狂っていたのか知らないが、静雄が普通ではないことは、化け物呼ばわりしている臨也が一番良く知っているはずのことなのだから。
 どこまで馬鹿なのかと溜息をつきながら、静雄は手を伸ばし、臨也の髪に触れた。
 気付いて逃げかけるのを許さずに、ゆっくりと癖のない黒髪を撫でる。
 そして、目と目を合わせて静かに問いかけた。
「──分かるか?」
「……何が?」
「こんな風に誰かに触ることなんて、俺には滅多にねえことなんだよ。最近はガキが周囲をちょろちょろするようになったから、以前よりは回数が増えてきたけどな。でも、まだ『普通』じゃねえ」
「…………」
「お前はいつも、俺だけは違うって言うよな。人間じゃねえって。つまりそれは、お前の中で俺だけは他の人間と違うってことだ。でも、俺にとってのお前はそうじゃない。喧嘩を売ってくる人間の一人で、嫌いな奴の筆頭ってだけで、『特別』じゃない。少なくとも、昨日まではそうだった。──昨夜のお前の言葉は、それが嫌だってことじゃないのかよ」
 ゆっくりと言葉を紡ぐ静雄を、臨也は表情を失くしたまま凝視していた。
 普段は鋭いばかりの透き通った瞳の奥で、何を思っているのか。
 触れている箇所から伝わればいいのに、と真剣に思う。
「もしそうだって言うんなら、お前はやり方を間違えてんだよ。ナイフで俺に切りつけてくる奴は、数え切れないくらいいる。拳銃で撃ってきた奴まで居るのに、そいつらと同じやり方で、どうして俺の特別になれるっつーんだよ? まあ、お前くらいしつこい奴は、他にいねぇけどな」
 言いながら、静雄は止まっていた右手をやわらかく動かして、もう一度、臨也の髪を撫でた。
「なぁ臨也。俺の気を惹きたいんなら、お前の言う『普通』のことをしてみろよ。うわべだけの演技じゃなくてだぜ? そうしたら俺は、多分、必死になってお前を見るからよ」
「そんな、こと──…」
「お前が俺に『普通』をくれるんなら、俺はきっと、お前のことばかり考える。ダチなんて一度も居なかったからな。つまんねえことでメールして、飯食いにいったり、飲みに行ったり……。そうでもなきゃ、俺はお前のことなんか考えねえ。思い出したって、気分が悪くなってそこいらの物をぶっ壊すだけだからな」
 言いながら、静雄は昨夜から何度か思い浮かべたその光景を、もう一度、少しだけ想像してみる。
 経験がないだけに難しかったが、弟でも先輩でもない誰かと普通にどうでもいいような会話して、時間を共有するのは酷く眩しいことに思える。
 それが臨也であっても……否、これまで徹底的に反発し合い、おそらく一番相手の嫌な部分を知り抜いているからこそ、他の誰とも違う深さで繋がれるような気がしてならない。
 そして、それは臨也が認め、受け入れてくれれば叶うことなのだ。
 無論、だからといって、臨也のすることを一から十まで許すことはできない。その点については、これまで通りに派手に喧嘩をしながら、それでも、別の角度で付き合ってゆくことができるのではないか。
 そんな風に考えながら、どこか祈るような思いで静雄は臨也の反応を待つ。
 そうして何秒が過ぎたのか。
「普通、なんて……できるわけないだろ」
 いつもよりも低い臨也の声が、静雄の鼓膜を打った。
「君が普通じゃないのに、どうして普通になんか接することができるんだよ。忘れてるんじゃないの? 俺は君が大嫌いなんだよ。絶対に、君に対するのに普通なんて在り得ない!」
 その強い否定に。
 静雄の心の中で、何かがすうっと冷える。
「じゃあ、この話はこれまでだな。言っとくが、俺が今のままの手前を特別に見ることなんざ、絶対にねぇからな」
 衝撃は薄かった。
 心の中で、所詮、ノミ蟲はノミ蟲、捻くれて意地っ張りでどうしようもないと分かっていたのだろう。やっぱりこんなもんか、と思いながら突き放す。
 もう嫌だと、どうすればいいのかと訴えるから、こちらも真剣に考えたのに、それを叩き落とすような真似をするのなら、これ以上手を差し伸べてやる気はなかった。
 それなのに。
「ずるいよ、シズちゃん」
 ひどく苦く歪んだ声で、臨也は見当違いの恨み言をぶつけてくる。
「その条件じゃ、君は何もなくさないじゃないか。俺には『普通』になれなんて、無理難題を突きつけておいて」
 そのひどく身勝手な台詞に、一体何を言ってやがるのかと静雄は眉をしかめた。
「普通じゃねーよ。特別になりたいんなら、してやるつってんだ。手前の態度次第だけどな」
「何、その上から目線。一体何様だよ?」
「つーより、そもそも手前の中に『普通』なんかあるのか? 手前だって全然、普通じゃねえだろ。普通にすんのは、手前にとっても特別じゃねえのかよ」
「何それ、勝手に……」
「手前が普通に話すんのは……妹たちと、門田と……。他に誰かいるか?」
 指折り数えてみたが、中指より先に進まない。
 どうだと臨也に視線を向けると、臨也はうつむき加減に酷く悔しそうな顔をしていて。
「……だからって、どうして化け物の君をそこに加えなきゃならないのさ」
 苦々しくそんな言葉を重ねられて、それまではどうにか凪を保っていた静雄の気分も少しずつ波立ってくる。
「俺が加えてくれって言ってるわけじゃねえ。俺はどっちでもいいんだ。選ぶのは手前だって、さっきから何度言わせる?」
 散々に繰り返すようだが、この話は本来、臨也の方から持ち出したものだ。
 静雄とて、これまでの臨也との関係にはうんざりしているが、今は臨也が新宿に本拠を構えていることもあり、臨也が池袋の街に姿を現したり、誰かがその名前を口にしたりしない限りは、その存在を意識の隅に追いやっておける。
 それでどうにかここまでやってきたのだから、この先もそれでやっていけないことはないのだ。
 胸糞が悪いのは変わらないが、臨也の毒を含んだ言動で傷付くことも、この年齢になれば左程はない。
 そういう意味では、今の臨也は許容範囲だった。姿を見れば問答無用で殴りかかる程度の許容範囲ではあるが。
 だが、そんな静雄の心理をどこまで察しているのか、臨也は険悪な声で告げた。
「シズちゃんのそういうとこ、大っ嫌いだよ。自分がどんなに傲慢か、全然分かってないだろ」
「あ"ぁ!?」
 思わずキレかけると、臨也は顔を上げ、静雄を正面から睨みつけてくる。
「シズちゃんの『特別』なんか要らないよ。俺は絶対に『普通』になんてならない。これまでも、これからも変わらない。今まで通りだよ。俺と君が、この街にいる限り、永久に」
「……そーかよ」
 なるほど、と静雄は思う。
 臨也がそういうつもりなら、こちらがこれ以上折れてやる必要などどこにもない。
「じゃあ、この話はここまでだな」
「そうして」
 互いに言葉を吐き捨て、目を背け合い。
 そうして、がし、と少し荒れた髪を右手で掻き揚げた時、ふと視界の隅を粥の入った器が掠めた。
 気付けば、先程温めたそれは、もう湯気すら立っていない。
「……冷めちまったな」
 せっかく出してやったのに手を付けられることなく冷えてしまったそれは、何となく自分の心にも似ている気がして、思わず低い呟きが零れる。
 と、
「──食べるよ」
 どこか溜息混じりの声で、臨也が言った。
「あ?」
 思わず聞き返すと、臨也は肩をすくめて、いつもの調子で言葉を連ねる。
「シズちゃんが、なけなしの金をはたいて、この俺のために買ってきてくれたわけだし? 考えてみれば、君に何かを奢ってもらうのって、これが初めてじゃない?」
「───…」
「何?」
「妙な気を遣うんじゃねえよ。気色悪ィ」
「残念でした。気なんか遣ってないよ。熱が下がって、おなかが空いただけ。昨日の昼以来、何にも食べてないんだからさ。あ、お茶も入れてよ、水分補給しないと。本当はポカリが一番いいんだけど、どうせ無いでしょ」
「うぜぇ」
 とりあえず、食べる気があるのは分かった。が、どうしてこいつは、折角出してもらったんだからいただきますと素直に言えないのかと、静雄は溜息をつきつつ、粥の器を掴んで立ち上がる。
 すると、粥を捨てられるとでも思ったのか、臨也は妙に慌てた声を上げた。
「シズちゃん、お粥!」
「温め直してやる。黙って待ってろ」
 そう言えば、なにやら口の中でもごもご言っていたが、すぐに静かになる。
 全く何を考えてやがるのかと思いながらも、静雄は粥の器を電子レンジの中に押し込み、その間にポットから急須に湯を注いで茶を入れ、冷蔵庫からポカリスエットを取り出してコップに注いだ。
 そうして一式を小さな盆に載せ、運んでゆくと。
「……なんで全部出てくるの」
 真顔でそんなことを言うものだから、心底、静雄は呆れ果てた。
「手前が欲しいっつったんだろ」
「……だからって、全部出てくると思うわけないよ。なんで、全部出てくるの」
「あーもー、マジで手前はうぜぇな! 黙って食って飲んで寝ちまえ!!」
 こいつの頭の中身を誰かどうにかしてくれと思いながら、手を伸ばして黒髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、粥の器を押し付ける。
 すると、臨也は今度は不満げにしながらも大人しく受け取り、もしゃもしゃと食べ始めた。
 熱くなった粥を小さく吹いて冷ましながら、ゆっくりと咀嚼してゆく。その様に、よし、と肩の力を抜いて、静雄も自分の湯呑みの茶を啜る。
 熱が引いて食欲が戻ってきたのなら、このまま明日には普通に動けるようになるだろう。
 まったく手間がかかったと思いながら、やっと静かに時間が過ぎてゆくのを感じていると、やがて粥を完食した臨也が、空になった器を盆に戻した。
「全部食えたな」
「そうだね。まだ体はだるいけど、熱っぽさは抜けたし。ついでに、シャワーも借りたいんだけど。何か体中がベタベタして気持ち悪い」
「それは止めとけ。二晩くらい風呂に入らなくったって死にゃしねえ」
「嫌だなぁ、俺は文明人なんだよ」
「ぶり返したらどうすんだ。今夜は我慢して、新宿に帰ってからにしろ」
「ちぇっ、融通利かないね、シズちゃん」
「手前に聞かせる融通なんざ、あるかよ」
「じゃあせめて、顔を洗わせて。歯も磨きたいけど、予備の歯ブラシとかある?」
「……買い置きのストックは、ある」
「じゃあ、それちょうだい」
 図々しく言って、臨也は立ち上がる。
 一瞬ふらついたが、静雄が手を差し伸べるより早く自分で体勢を立て直し、洗面所に向かおうとするから、静雄も諦めてそれについてゆき、新しい歯ブラシと洗濯済みのタオルを出して投げてやった。
 そうして歯を磨き、顔を洗った臨也は、すっきりした顔で布団に戻る。
 そこまできて静雄は、臨也がもう一晩泊まってゆくつもりらしいことにようやく気付き、ひどく驚いた。
 ───つーか、この状況でもう一泊するか?
 つい先程まで、自分たちはかなり険悪な雰囲気で、言葉の応酬をしていたのではなかったか。
 なのに、臨也は訳の分からない理屈を捏ねながら、粥を食べ尽くし、茶もポカリスエットも飲み干し、あまつさえ歯ブラシとタオルまで借りて、今また、布団に戻っている。
 一体、臨也が何を考えているのか、また本格的に分からなくなった静雄の耳に、更に臨也の言葉が追い討ちをかけた。
「そういえばさぁ、俺がこの布団使ってて、シズちゃんはどうしてるの?」
「それは元々客用の奴だ。俺のは押入れの中」
「ああ、そうなんだ」
 条件反射的に答えると、臨也は納得したように掛け布団を肩まで引き上げながら、こちらにまなざしを向けてくる。
「明日の朝、俺、帰るからさ。俺の服、出しといてよ」
「ああ、今日は天気良かったから、ちゃんと乾いてるぜ」
「そう」
 うなずくと、臨也はころんとこちらに背を向けて、それきり動かなくなる。
 ありがとうの一言もなかったが、今朝静雄が着替えさせてやったトレーナーパジャマのまま、布団にくるまっている臨也の姿は、静雄の気遣いを十分に受け止めているようにも見えて、一体何なのだ、と静雄は知らず詰めていた息を吐き出す。
 そして、立ち上がり、自分も寝支度を整えながら、もう一度、臨也の言動について考えてみた。
 苦しい、辛いと言いながら、普通に付き合うのは嫌だと拒絶する。
 自分を看病するなんて、どうしてそんな馬鹿なことをするのかと言いながら、大して遠くもない自宅に帰りもせず、その世話を甘んじて受け止めている。
 まったく支離滅裂だ。
 ───手前の本音は、どこにある?
 部屋の幅が許す限りの隙間を空けて、臨也の隣りに自分の布団を敷き、こちらに向けられた背中を眺めながら考える。
 少なくとも、羅列された言葉の中には、臨也の本心はない。
 全くの嘘ではないにせよ、大部分はおそらく売り言葉に買い言葉で、むしろ本音を隠すものだろう。
 一方で、行動はと言えば。
 霧雨の降る街角で狂ったように笑い、涙を見せ、静雄の言葉に青褪め、そして、静雄の世話に甘んじている。
 ───ああ、そうか。
 臨也の本音はこっちだ、と閃くように静雄は悟る。
 耳にするだけで苛立つ毒を含んだ声や、ニヤニヤ笑いに彩られたポーカーフェイスの奥に、気付いて欲しいと必死に静雄に訴えかけている臨也の感情が隠れているのだ。
 ───それを俺は見てやらなきゃならねぇんだな……。
 臨也はこれまでひたすらに、静雄を振り向かせようとし続けてきた。それはつまり、そういうことだったのだろう。
 折原臨也という人間から目を背けるのではなく、対等な存在として見て欲しい。
 決して言葉にしない、できない感情を掬い上げ、理解して欲しい。
 そのためだけに……静雄の心に存在を刻み付け、振り向かせるためだけに、臨也は静雄にナイフを突きつけ、悪辣な策略をめぐらし続けてきた。
 それはなんと我儘で身勝手で、切実な願いか。
 素直に言えば、もっと早く分かってやれただろうに、ひたすらに攻撃を繰り返すだけとは、どこまで捻くれているのだろうと思う。
 ───本当に馬鹿だろ、臨也。
 『普通』は嫌だと、臨也は静雄の言葉を拒絶した。
 それは本心だと感じたが、しかし、それだけでもないのだろう。少なくとも臨也は、静雄の『特別』を欲しがっている。
 ただ、彼の異常に高いプライドが、それを認めることを拒絶しているだけだ。
 静雄の『特別』を手に入れるために『普通』に振る舞いなどしたら、アイデンティティーが崩壊する。そんな風に思っているのに違いない。
 ───とりあえず、俺は俺にできることをするか。
 普通に付き合うのが嫌だと言い張るのなら、それは仕方がない。
 これ以上、どれ程折れてやったところで、臨也の答えは変わらないだろう。そんな無駄なことをするつもりは静雄にはないし、一応のプライドもある。
 だが、臨也の本当の思いを探し出して、それを見てやることはできる、と思う。
 これまで嫌悪感と怒りが先立って、目を背けるばかりだったそれにまなざしを向けてやれば、きっと新たな何かが見えてくるだろう。
 そうしたら、自然に二人の関係が変わるきっかけを掴めるかもしれない。
 ───なぁ、臨也。俺だって嫌なんだぜ、たとえお前でも、誰かのことを嫌い続けるのはよ。疲れるし、ちっとも楽しくねえ。
 変われるものなら変わりたかったのだ、本当に。
 そのきっかけを臨也本人がくれたのだから、絶対に手放しはしない。
 無論、この先も臨也は今夜のように抵抗し、静雄が差し出す手を拒絶し続けるだろう。
 だが、それでも良いと思えた。少なくとも、互いに攻撃し合うしかなかったこれまでとは形が違う。
 今はそれで十分だ、と心に呟いて。
 静雄もゆっくりと、眠りの淵へと滑り落ちていった。

to be continued...

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