DAY DREAM -Telephone Line-

 じぃ…っと臨也は、その自分の目の前にあるものを見つめる。
 メタリックブラックの、煙草の箱より幾分小さく、半分くらいの厚さの四角い物体。主にプラスチックでできたそれは、紛(まご)うことなき携帯電話、だった。
 パソコンデスクに置いたそれを、臨也は先程からひたすらに見つめていた。あるいは睨みつけていると言ってもいい。それほどに剣呑な目つきだった。
 自宅兼事務所の広い室内には現在、臨也一人きりで、秘書の波江はおつかいに出ている。
 とある書類の受け取りと郵便局と銀行を回り、帰ってくるまでには、まだ一時間ほどかかるはずだった。
 その波江が出て行ってから、かれこれ三十分以上が経つ。
 その間中、臨也の視線はこの小さな機械から離れることはなかった。
「───…」
 携帯電話を見つめる臨也の脳裏には、一連の数字と記号がテロップのように流れ続けている。
 約三ヶ月ほど前に正規に手に入れたそれは、今の臨也の頭痛の種だった。
 何しろ、どう扱えば良いのか分からないのだ。
 そんなことは至極珍しい。
 どんな番号であれ記号であれ、とりあえずストックしておいて、然るべき時に利用する。ずっとそうしてきたのに、この数字と記号だけは、どうすれば良いのか分からない。
 決して認めたくはないが──途方に暮れている、というのが臨也の正直な心境だった。

「……いつでもメールとか電話とかしてこい、って言ってたけど……」
 途方に暮れた渋い顔で携帯電話を睨みつけたまま、臨也はポツリ、と呟く。
 天敵であるはずの存在にそんな言葉をもらったのは、十日ほども前の話だ。
 だが、その時の状況は思い返したくない。思い出した瞬間に、アスファルトに穴を掘って埋まるか、コンクリートの壁を突き崩して瓦礫に埋まるかしたくなるからだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 あの日から足掛け十一日が過ぎた今でさえ、臨也は自分で自分が理解できていなかった。
 なお、その天敵こと平和島静雄のことは、一番最初から理解できたためしがないので、考えることはとうに放棄しているから、彼が何を考えているのか、という問いは論外である。
 とにもかくにも、思い出したくない一連の遣り取りを経て、臨也は、静雄に自由に連絡を取る権利、らしきものを手に入れた。
 それは喜ばしいことなのかもしれない。
 これまでは、人づてに本人の了解無しに手に入れた電話番号とメールアドレスしかなかったのだ。池袋の自動喧嘩人形本人の了承を得て、ということの意味は大きい。
 だがしかし、この情報をどう扱えばよいのか。
 ただただ臨也が頭を悩ませているのは、図らずも合法的に手に入れてしまった静雄の携帯電話の番号とメールアドレスを、自分はどう処理するべきなのか、という一点なのだった。

 ふう、と溜息をつき、携帯電話から視線をはずして椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げる。
 そもそも、あの日の出来事は現実だったのか、と思う。
 自分が苦い現実に悲嘆するあまりに作り出した、何かの妄想ではないのか。
「──だって、さあ。有り得ないじゃん。シズちゃんが俺を、なんてさぁ」
 呟くと、更に非現実感は増す。
 なにしろ、静雄と自分は出会ったその瞬間から殺し合いを続けてきたのだ。静雄が並みの肉体の持ち主だったら、軽く百回は死んでいるだろう。それだけ悪辣なことを繰り返してきた。
 そもそもナイフで切りつけることすら、静雄以外が相手なら立派な傷害罪だ。
 そんな自分を静雄がどうこう思うと考える方がおかしい。可能性に思いを馳せることすら、気違い沙汰だ。
 けれど。
 この黒い携帯電話の中に、赤外線通信で入手した番号とアドレスが厳然として存在しており、それが臨也を悩ませていた。

「大体、俺がシズちゃんに電話とかメールとかってのも、有り得ないんだって」
 実のところ、一度も彼に電話もメールもしたことがないというと、それは嘘になる。
 高校時代、静雄を策に嵌めるためにそれらを使ったことはあった。つまりは、静雄に対する嫌がらせの小道具として、だ。
 だが、目の前の携帯電話に入っている番号とアドレスは違う。
 多分、そういう目的で使ってはならないもの、なのだ。
 だが、それこそが臨也を困らせる。
 何しろ、仕事や嫌がらせや企み目的以外でそれらの数字や記号を使った経験が、臨也はこれまで一度もないのである。
 たとえば世間一般の人々がやっているように、暇だから、とか、ちょっと話したくなったから、というような理由で、誰かに連絡を取るなどというのは、臨也にしてみれば頭に思い浮かんだことすらない行動だった。
 だが、この番号とアドレスは、そうするためのものなのだ。──臨也の解釈が間違っていなければ。

 ああもう有り得ない!、と臨也は舌打ちして、椅子をくるりと回転させる。
 もういっそのこと、この忌々しい数字と記号を削除してやろうか、とすら思い付いたが、しかし、それを実行できるのかと考えれば、また苛々がつのる。
「……一体どうすればいいって言うんだよ……」
 らしくもない泣き言めいた愚痴を零しながら、ちらりと携帯電話を見やる。
 と、その時。
 ブルル、とバイブが震え、着信を示すパイロットランプが点滅した。
 誰だよ、と思いながら、開いて液晶画面を確認する。
 そして、臨也は固まった


”平和島静雄”


 画面には、くっきりとそう浮かんでいる。
 そうする間にも、繰り返し携帯電話はバイブレーションを起こし。
 はっと我に返った臨也は、慌てて通話ボタンを押した。
「……はい?」

『臨也?』

「っ!」
 不意に耳元で名前を呼ばれて、思わず臨也は携帯電話を耳から遠ざけ、投げ捨てそうになる。
 が、寸でのところで思いとどまり、自分を呼んでいるらしい声が聞こえるスピーカーを、おそるおそる耳元に戻す。
「──シズちゃん?」
『あ、聞こえてんなら返事しろよ。それとも仕事中か?』
「ああ……まあ、仕事中は仕事中だけど、事務所にいるし、そんな忙しいわけでもないけど……。何の用?」
 手持ち無沙汰に目の前にあるパソコンのキーボードに指先を伸ばしながら、そう答えると、少し困ったような声が返ってきた。
『別に用って訳じゃねぇよ』
「じゃあなんで? シズちゃんも、まだ仕事中じゃないの?」
 パソコンの時計は二時半を少し回ったところだ。今日は休みだという連絡はもらってないから、おそらく勤務中で間違いない。
『休憩中だ。つーか、昼飯食い損なって、今が昼飯なんだよ』
「へえ。取立ての仕事も楽じゃないね」
 言いながら、臨也はひどく困る。
 電話というのは、こんなに困った道具だっただろうか。
 当然といえば当然のことなのだが、耳元で静雄の声が聞こえる。低くて響きのいい、ひどく魅力的な声だ。
 その声が。
『おう。って、そうじゃなくてよ、臨也』
 名前を呼ぶのである。
 はっきりいって、この機械を投げ捨てたい。粉々に壊したい。
 そう思うのに、しかし、電波状況が悪くなったふりをして通話を切ることはおろか、電話を耳から遠ざけることすらできない。
 何なんだ、と臨也は思う。
 一体何をしているのだ、自分は。
 そう思うのに、静雄の声は臨也の混乱に更に拍車をかけてくる。

『手前、何で連絡してこねぇんだ』

「……は、ぁ?」
『言っただろうが。メールでも電話でもしてこいってよ』
 少しばかり怒ったように言われて、臨也はひどく困惑する。
「確かに言われたけど、何それ。俺、従わなきゃいけないの? 何の命令? シズちゃん、いつから俺の上司にでもなったわけ?」
『〜〜〜手前なあ、』
「そんなの俺の勝手だろ。しばらく仕事が詰まってたし、用事がなかったから連絡しなかった、それだけだよ。君に文句言われる筋合いなんかないね」
 立て板に水のように、さらさらと言葉が口をついて出る。
「第一、シズちゃんだって、休憩中になんでわざわざ俺に電話かけてくるのさ。貴重な休み時間なんだろ。のんびりシェイクでも飲んでりゃいいじゃん。ほら、あの先輩さんとか可愛い後輩ちゃんとかも一緒にいるんだろ。大事な仕事仲間と楽しく……」



『──ンなの、手前の声が聞きたかったからに決まってんだろうが!!』



 不意に耳元で怒鳴られて。
 鼓膜がキーンと震える。
 だが、鼓膜以上に。
「……は、何言ってんの、シズちゃん」
 かすかに震える手で携帯電話を握り直し、震えそうになる声を懸命にコントロールして、いつもの調子で言い返す。
「俺の声で癒されるとでも言うわけ? 本当にマゾなの?」
『ンなわけねーだろうが!』
 クソッ、と舌打ちする声が聞こえて。
 臨也の心がひやりと冷える。
 言い過ぎた、だろうか?
 でも、いつもこれくらい言っているはずだ。どんな時であっても、静雄相手の毒舌を容赦したことはない。
 そして、この前は静雄もそれを許してくれた、はずだった、けれど。
「シズちゃ……」

『あ"あ、やっぱ電話は駄目だ!』

 吐き捨てるように言われて。
 臨也は言葉を失った。
 脳裏が真っ白になって、何を言うべきなのか分からなくなる。

 ───シズちゃん。

 俺、言い過ぎた?
 でも、この前はいいって言ったよね? それがお前だって。
 急に駄目になったの?
 それとも本当は、最初から駄目なままだったの?
 あの時、許してくれたのは、ただの気まぐれだった?
 雰囲気に流された?
 そういうの、やめてよ。俺、どうすればいいのか分からなくなるじゃん。
 だから嫌だったんだよ、電話とかメールとか。
 上手く話せるわけないじゃないか、俺と君が。
 きっとこんな風になるって分かってて、だから、俺はあんなにも──。



『臨也、今日の晩飯は一緒に食え』



「───は?」
『だから、晩飯。何か予定でも入ってんのか?』
「いやいや、だからなんで晩飯? しかも命令形ってどういうこと?」
『仕方ねぇだろ、まだしばらく会社のスケジュールが立て込んでるから、今月中は休みもらえそうにねえし。晩飯食うくらいの時間しか取れねぇんだよ』
「いや、だから別にシズちゃんのスケジュールを聞いてるわけじゃなくて……」
『じゃあ何だ。お前の方が予定入ってんのか?』
「──入ってないよ、今夜は。だから、御飯くらいの時間はあるけど、そういうこと言ってるんじゃなくて、なんで俺と晩御飯なのかって」

『そんなもん、顔見て話したいからに決まってるだろ』

 再び爆弾を投下されて。
 今度こそ臨也は固まる。
 ───今何て言った、この化け物は。
 ───っていうより、さっきから何言ってんだ。
 声が聞きたい、とか。
 晩飯一緒に食え、とか。
 顔を見て話したい、とか。
 気でも狂ったのではないか?

『───い、おい臨也』
「……あ、何、シズちゃん」
『…………』
「シズちゃん? 聞こえてる?」
『臨也』
「あ、聞こえてるじゃん。どうしたの?」
『お前、今、固まってただろ』
「!」
 呆れたように言われて、思わず臨也は耳から携帯電話を引き剥がす。
 視線で解体する勢いで睨みつけ、しかし、そうしたところで何の意味もないことを思い出して、再びスピーカーを耳に当てた。
「やめてよねシズちゃん。君が妄想するのは勝手だけどさぁ、それに俺を巻き込まないでよ」
 そして、思い切り憎らしい調子でそう言うと。
 電話の向こうで静雄が溜息をついたのが聞こえて。
『ったく……。目の前で見てりゃあ全部分かるってのによ』
「は? 何の話?」
『お前のことに決まってんだろ』
 言い切られて、臨也は眉をしかめた。
「俺が、何」
『だから、電話じゃ駄目だってことだ。お前の顔が見えねぇから、声だけ聞いてると、只のウゼェむかつくノミ蟲としか思えねぇんだよ。目の前で言ってりゃ、可愛いだけなんだけどな。だから、今夜、会え』
「───だから、どうして命令形なんだよ。第一、よりによって俺に可愛いって、形容詞おかしいだろ。本当に目が腐ってるんじゃないの? 一度、新羅にでも看てもらったらどうなのさ」
『うるせぇ。電話じゃもう話さねぇからな。今夜、仕事が上がったらメールする。新宿まで行くから、店決めとけ』
「何それ横暴」
『じゃあな』
 その言葉を最後に、ぶつりと通話が切られる。
「ちょっと、シズちゃん!?」
 呼びかけても、当然、返事は返らない。
 臨也は耳から話したそれを忌々しげに見つめ、スライドを綴じた。

「もう、訳が分かんなさ過ぎるよ!」

 突然電話をかけてくるだとか、いきなり晩御飯の約束だとか。
 第一、自分はOKなどしていないではないか。
 なのに、店を決めとけとか、一体どういう了見か。
 けれど。
「〜〜〜俺、馬鹿だろ……!」
 絶対に行かないと拒絶メールを送りつけるどころか、恥ずかしいほどに喜んでしまっている自分が、一番どうかしている。
「シズちゃんの馬鹿! 俺も馬鹿!」
 黒い携帯電話を握り締めたまま、臨也は自分と静雄をまとめて罵り。
 そして、涙目で赤い顔のまま、クソっと舌打ちしながらパソコンのマウスを取り上げ、今夜のためのぐるナビを検索し始めたのだった。

End.

製作BGMは、「すばらしい日々」をエンドレスリピート(笑)
このシリーズのイメージ曲は、鬼束ちひろの「私とワルツを」だったのですけども、後日譚は明るい雰囲気にしたかったので。
しかし、大好きな青春ソングを臨也さんに歌われる日が来るとは、思いもしませんでした。
しかも、今まで気付かなかったけど、完璧にシズイザソングですね、この歌詞。

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