きらきら 06

「この店にはよく来るの?」
「そうですね。月に何度かってとこですけど。……俺の借りてるマンションは、ここからそんなに遠くないんで」
「……そうなんだ」
 綱吉は濃琥珀色の瞳をまばたかせて、小さく首をかしげる。
 短い沈黙の間、脳裏で地図を描いていたのだと分かったのは、じゃあ、と続けたからだった。
「俺のアパートの最寄り駅は神保町だから、地下鉄の路線は多分、違うね」
「……そういう、ことになりますね」
「そっか」
 溜息をつくような短い相槌が、何を思ってのことだったのかは分からなかった。
 分からないことだらけだ、と思いながら獄寺は、ためらいがちに尋ねる。
「沢田さんは……大学は……」
「あ、うん」
 綱吉は、あっさりと大学名を告げた。
「リボーンが大学受験まで面倒見てくれたから、何とか浪人せずにすんだんだよ。まあ、『オレが五年半、付きっきりでしごいてやったのに、この程度の大学しか入れねーのか』って呆れられたけど」
「リボーンさんが……」
「うん。あいつって口では何のかんの言いながら、面倒見のいい奴だから。結局、高校の卒業までうちにいてくれた」
「そう……だったんですか」
 てっきりリボーンも自分と同様、綱吉の退院直後に日本を離れたとばかり思っていたから、かなり驚きながらも、九代目とリボーンならそういう判断も有り得るだろう、と納得する。
 七年近く前にリボーンが日本へ送り込まれたのは、綱吉をボンゴレ十代目として教育するためだったが、不慮の事故によってそれが駄目になったからといって、あっさり契約を終了するには彼らも綱吉に対して情を持ち過ぎていたのに違いない。
 何も知らず平和な日々を送っていた少年を裏世界の事情で振り回し、挙げ句、片目の視力を失うという障害を負わせてしまった以上、せめてもの償いとして、大学受験がすむまで只の家庭教師としての契約の継続がなされたのではないかと獄寺は推測した。
「で、大学まで家から通えないことはないんだけど、電車を乗り継いで二時間くらいかかるから。母さんに頼んで、去年の春から一人暮らしさせてもらってるんだ」
 最初のうちは大変だったけれど、何もかも自分でやる生活にももう慣れたから不自由はないと、綱吉は微笑む。
 それから、微笑みを消して少しばかりおずおずと問いかけてきた。
「獄寺君は……今も一人暮らし?」
「はい。俺はずっと一人です」
 一人なのかと問われたこと自体に内心驚きながら答える。
 自分は八歳で実家を飛び出して以来、誰とも一緒に暮らしたことはない。今更、他人と生活を共にすることなど考えられなかったし、誰かと共にいたいと思ったこともなかった。
 もしあるとすれば……生活を共にするのとは全く別の次元で、目の前の人とずっと一緒にいたかった。それだけだ。

 毎日毎日、会って、話をして、笑い合って。
 離れてからも、そんな宝物のようだった日々を、いつも思い返さずにはいられなかった。
 あの頃、自分の生活は朝から晩まで『十代目』で占められていた。
 その日々がどれほど幸福だったか。
 毎日、幸せを噛み締めていなかったわけではない。
 だが、失って初めて、その本当の価値を知ったのだ。

 獄寺の返答に何を思ったのか、綱吉はまなざしを落として、指先でコーヒーカップの持ち手をなぞる。
 灰藍色と金泥の釉薬で彩られた欧州産の美しい磁器に、細い指先は不思議な程、似合って見えた。

「――じゃあ、」
 ためらいを含んだ声で、ぽつりと綱吉が呟く。
「また、会える?」

 会ってくれる?、と小さな声が問いかける。
 その言葉をどう受け止めればいいのか、分からなかった。

「――俺の方は、いつでも大丈夫です」
「……本当に?」
「はい。あなたに嘘はつきません」
 そう告げると、綱吉はやっとまなざしを上げた。
 太陽のかけらを含んだような透明な濃琥珀色の瞳は、どこか不安げにも寂しげにも見えて、獄寺はいっそう心が波立つのを感じる。
 だが、視線をそらさずにいれば、綱吉は小さくありがとう、と言った。

「そろそろ出よっか」
「……はい」
 うながされて、立ち上がった。
 そして、綱吉の手がレシートにのびる前に、その白いメモをさりげなく奪い去る。
「俺が出しますよ、これくらい」
「でも」
「これでも一応、人並みには稼いでますから」
 正確には人並み以上にだったが、自慢するべきことでもない。ただそうとだけ言って、カウンターに向かう。
 支払いを終えて店を出ると、眩しい冬晴れの空とは裏腹に冷たい風が頬を刺した。
「寒くないですか?」
 問いかけると、綱吉は肩をすくめるようにして笑う。
「平気って言ったら嘘だけど。でも、どうしようもないしね」
「タクシーくらい、すぐに呼びますけど」
「いいよ、タクシーなんて。歩いたって俺の部屋まで二十分もあれば着くし」
 相変わらずだねぇと笑いさざめいた綱吉の声が、ふっと途切れる。
 そして綱吉は、人通りの殆どない道の端で立ち止まった。
「沢田さん?」
「……あのさ」
 微笑みたいのに微笑みきれないような少し硬い表情で、前方のアスファルトを見つめたまま、綱吉はダッフルコートのポケットから携帯電話を取り出す。
 何かと考え始めるまでもなく、静かな声が言った。

「俺、昨日かけてくれた君の携帯の番号、まだ登録してないんだ。――登録、してもいい?」

 その言葉に、獄寺は心臓をわしづかみにされたような胸苦しさを覚える。

 何故、この人は。
 何故、こんなにまでも。

「―――…」
 ぐっと唇を噛み締めるようにしながら、自分の携帯電話を取り出し、開いた。
「……獄寺君?」
 不安げに名を呼ぶ声は聞こえたが、画面を見つめたまま答えずに手早くボタンを押す。
 五秒程のタイムラグがあって。

 綱吉の手の中の携帯電話が、あの頃彼が好きだったのと同じ歌手の最新ヒット曲を奏でた。

 綱吉が驚いたように、鳴り続ける手の中の携帯電話を見つめる。
 その顔を見つめながら、告げた。
「俺のメールアドレスです。いつでも連絡して下さい。電話でも、メールでも。朝でも夜でも昼間でも構いません」
 こちらを見た綱吉の目が驚いたようにみはられ、再び手の中の携帯電話の画面を見つめる。
 そして綱吉は、おもむろに指を動かして着メロを止め、ゆっくりと携帯電話のボタンを操作した。
 ほどなく登録作業が終わったのか、画面をもう一度じっと見つめてから、携帯電話を閉じる。

「ありがとう、獄寺君」
「いいえ」

 向けられた笑みを、懐かしくも切なく受け止める。
 今の自分に何ができるわけではない。
 それでも、この微笑みをこれ以上裏切らないことくらいはできるかもしれない、と再会してから初めて思った。



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