きらきら 04

 待ち合わせの交差点は、綱吉のアパートから歩いて十分ちょっとの所だった。
 少し余裕を見て、二十分近く前に部屋を出る。
 晴れてはいたが街を吹き抜ける風が、気温よりも遥かに体感温度を低く感じさせる。マフラーをした首をきゅっとすくめて、綱吉はゆっくりと歩き出した。

 あの場所には待ち合わせ時間よりも五分以上早く着いたが、獄寺はもう先に着ていた。
 交差点より数歩離れた位置で、目線を落として道路標識に寄り掛かるようにして立っているその姿は人目を惹かずにはおかない存在感があるのに、ひどく所在なげに見えて、綱吉は何かに押されるように足を早め、近付いた。
「沢田さん」
 綱吉が交差点を渡り終えた所で、獄寺はふと顔を上げ、こちらを見る。
 だが、その美しいとさえ形容できる端正な顔に浮かんだのは笑顔ではなく、微笑未満の曖昧な表情だけだった。
「ごめん、待たせちゃったね」
「いえ、俺もついさっき、来たばかりですから」
 それが本当ならいいけれど、と綱吉は思う。
 獄寺は昔から、自分を待つことを苦にしなかった。今はどうかは分からないが、それでも彼のことだ。十分以上前にはここに来ていたのではないだろうか。
 だからこそ自分も早めに出てきたのだが、やはり獄寺にはかなわなかった。
 そのことを嬉しがるべきなのか、悲しがるべきなのか。
 分からないと思いながら、綱吉は獄寺を見上げる。
「これから、どうする? 何か考えてある?」
「沢田さんは?」
「俺は特に、何も」
 行きたい場所や見たいものなど、今は何一つない。
 そんな綱吉の気持ちを感じ取ったのか、獄寺は、それなら、と言った。
「ちょっと歩きますけど、割といいコーヒー専門店があるんです。そこでもいいですか?」
「うん」
 綱吉は迷いなくうなずく。
 どこでも構わなかった。話をできるのなら。どれほど短い時間であっても、一緒にいられるのなら。
「じゃあ、行きましょう」
 こっちです、と獄寺が示す。
 そうして歩き出しながら、さりげなく彼が自分の右側に並んだことに気付いて、綱吉は思わず獄寺の横顔を見上げた。

 獄寺は、以前は自分の左側を歩くことが多かった。
 おそらく左利きの彼は、咄嗟の場合には綱吉が右側にいた方が庇いやすかったからだろう。
 そして今、右側を歩いているのも一緒のことだった。

 右目の視力が殆どない綱吉は、右側の死角がうんと大きい。
 とりわけ、自分より身長が低い人間――女性や子供、老人が右方向や右後方から近付いてきた時は、まず目視で認識することはできない。
 幸い、かつての生活の中で鍛えられた感覚の鋭さと、なるべく道路の右端を歩くようにしていることから、これまでさほど危ない思いをしたことはないが、それでも外を歩いていて人や物にぶつかることは、ままある。
 それを察して、死角を補うために獄寺が当たり前のように右側に歩いてくれることは、綱吉の心の深い部分を静かに揺さぶった。

 今に限らず、獄寺のすることは、いつも綱吉の心を強く揺さぶる。
 最初に出会った頃は、揺さぶられるというよりも悪い意味でハラハラドキドキしっぱなしだったのに、いつの間にかそれが変わって、幾度目かの春を迎える頃には、獄寺の言葉の一つ一つ、表情の一つ一つ、仕草の一つ一つが、大切な意味を持つようになっていた。
 なのに、やっとそのことに気付きかけていた時に、綱吉はあの事故に遭ったのだ。

 だから、綱吉が本当に自分の心に気付いたのは、獄寺に「さよなら」と告げた時だった。
 もう取り返しのつかない最後の時になって、「さよなら」の意味と同時に、自分の心が揺さぶられることの意味をも理解した。
 悲しいということを、辛いということを本当の意味で、あの日、知ったのだ。

 ―─―もう二度と会えないのだと思っていた。
 だからこそ、会いたかった。
 そして今、獄寺は自分の右側を歩いている。
 昔に比べたら幾分ゆっくりとなった自分の歩調に合わせて、同じようにゆっくりと。
 あの頃のように無邪気な笑みを見せることもない。
 あの頃のように、やたらと世話を焼こうともしない。
 けれど、それでも。


 彼は、今、ここにいてくれる。


「あの店です」
 二度ほど角を曲がって、表通りから離れた小綺麗で少しばかりレトロな雰囲気の漂う住宅街の道を黙って歩いていた獄寺が、ふとそう告げる。
 どこだろう、と前方に視線をさまよわせるうち、ヨーロッパの古い店のように壁に錬鉄製の看板を飾った、店鋪らしき建物が住宅と住宅との間にあることに気付いた。
 この街は戦時中、一面の焼け野原になったはずだから、戦後すぐくらいに建てられたものだろうか。小さくてモダンな二階建てのくすんだ白い壁に蔦がはっているのが、レトロな雰囲気をいっそう強めている。
「なんだか雰囲気のある店だね」
「中はもっとですよ。六十年くらい前に新築して以来、一度も改装してないそうですから」
 答える獄寺の声と表情は、少しだけ和らいでいる。けれど、微笑むと称するにはまだ足りなかった。
 店の入り口のドアを獄寺が押し開けると、ドアの上部に付いていたらしい純銅製のカウベルが、からんとやわらかな音を響かせる。
 いらっしゃいませ、という店主らしい初老の男性の声とコーヒーの香りに迎えられて見ると、獄寺の言った通り、くすんだ焦茶色の柱や窓枠と白い漆喰の壁、年代を経て磨かれた艶やかな茶色い木製のテーブルセットと、こればかりは新しい窓を縁取る薄青のカーテンとの対比が、とても落ち着いていて綺麗だった。
 窓際のテーブルを選んで腰を下ろし、獄寺が開いてくれたメニューに目を通す。
 が、コーヒーについては好きであってもこだわりがあるわけではない。
 とりあえずという感じで綱吉はブレンドを頼み、綱吉とは違って昔からこだわる方だった獄寺はブルマンを頼む。
 そこまで終えた所で、やっと綱吉は落ち着いて向かい側に腰を下ろす獄寺の顔を見つめた。

 何を話すかは決めていなかったし、何を話したかったのかも今は思い出せない。
 けれど、この一分一秒を無駄にはするまいと、そう強く綱吉は思った。



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