星屑カレイドスコープ

五、星光る

 どうもおかしなことになったな、と白澤は落ち着かない気分を持て余す。
 こんな状態が始まったのは、半月余り前のことだった。
 倉庫の中身を見に来た鬼灯が次の予定を決める際、その日はちょうど旧暦の七夕、ひいては流星群の夜に当たるから酒を持参すると言った。言葉にすればそれだけのことである。
 けれど、白澤はその夜から、何とはなしに気が浮き立って仕方がなくなったのだ。
 あいつはどんな酒を持ってくるのだろうと考えたり、肴には何を作ろうかと考えたり、落ち着かないことこの上ない。夜眠れないほどではないが、半月もそんなふわふわとした状態が続いている。
 だからといって、仕事ではさすがにミスをすることはない。可愛い女の子と話していれば気は紛れるし、患者をきちんと治してやりたいと思うから集中もする。
 しかし裏では、生薬を乾燥させるタイミングを少し間違えて一笊(ざる)分を駄目にしてしまったり、気に入りの皿を割ってしまったり、つまらないミスの連発で桃太郎に呆れられる日々が続いていた。
 おまけに、皿を割った時には、これが結晶釉のぐい呑みでなくて本当に良かったと本気で胸を撫で下ろしたのだから、益々どうしようもない。
 一体自分はどうしてしまったのだろうと、白澤はかなり真剣に悩んでいた。
 そして、鬼灯との約束の日である今日。
「そろそろいいかな」
 今、白澤は自宅の台所で料理中である。
 目の前の蒸籠(せいろ)からは盛んに蒸気が上がっている。そろそろ良い頃合いだろうと蓋を開け、中の様子を確かめた。
 蜜汁火腿と呼ばれるこの料理は、上等の火腿(ハム)の塊を蜂蜜を加えた甘辛い煮汁と共に蒸し上げる料理である。そのまま食べても美味だし、蒸し饅頭の間に挟んでも美味しい。
 他にも、小イカと空豆を梅風味で炒めたものや揚げた手羽元を甘辛い汁に絡めたもの、鰯の香草焼き、キャベツとモツの味噌炒め、レンコンチップ等々、白澤は思いつくままに大量の料理の下ごしらえをしていた。
 これらは勿論、すべて今夜のためのものだ。三人分としては少し多すぎるかとも思ったが、鬼灯は大食らいである。この程度は食べてしまうだろうと割り切って、せっせと調理を続けている。
「うん、美味い」
 蒸し上がった火腿の端をほんの少しナイフで切り取り、味見する。塩漬けにして熟成させた濃厚な豚の旨味に紹興酒や醤油、蜂蜜の風味が加わって、何とも奥行きのある味に仕上がっている。
 これならば間違いなく鬼灯も美味いと言うだろうと考えた直後、白澤は我に返り、頭を抱えたくなった。
「そりゃ美味いと言わせたいよ? 言わせたいけどさぁ……」
 一から十まで鬼灯の好きそうな味や食材を考えて料理をしているというのはどうなのだろう。あまりにもあの鬼に思考を囚われすぎではないだろうか。
「あいつ、なんか変な呪いをかけたんじゃないだろうな。心理的な呪詛が働くアイテムは、一緒に確認した収蔵物の中にはなかったと思うし……」
 ぶつぶつと呟きながら、白澤は蒸籠から火腿を取り出し、薄くスライスして大皿に綺麗に盛り付ける。
 その作業の途中、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が鳴った。
 見れば、着信相手は鬼灯である。まさか仕事が長引いて来られなくなったとかじゃないだろうなと思いながら応答すると、落ち着いた鬼灯の声が耳元で響いた。
『もしもし?』
「何?」
『今夜なんですけど、ちょっと頭数が増えても大丈夫ですか? シロさんたちに出かけようとしたところを見つかってしまいまして……』
「ああ……」
 何のことはない。用件を言われて、気の抜ける思いで白澤は調理台に体重を預けた。
「いいよ。料理は大量に作ってるし、焼くだけの肉や魚も冷蔵庫にそれなりにあるし」
『何か酒以外に持っていくもの、あります?』
「いや、大丈夫。こっちに着くの何時くらいになる?」
『もう少ししたら出ますから、十時過ぎくらいですかね』
「了解。待ってるよ」
『はい。では、後程』
 ぷつ、と通話が切れたのを聞き、耳から携帯電話を離して電源ボタンを押して。
 またもや、はたと白澤は我に返る。
 ―――待ってるよ、って何だ。
 ―――いや、勿論待ってるのは待ってるんだけど。飲むために晩御飯は極軽くしたから、もうおなか空いてきてるし。
 けれど、しかし、と思う。
 待っているよ、という言葉には、かなり親密な情が籠められてはいやしないか。
 いるとしたら、それは一体どういうことなのか。
「……確かに可愛いとは思ってるけどさ……」
 暴力を振るわず、出した料理や菓子を美味いと言いながら食べて、倉庫の収蔵品についてあれやこれや言う鬼灯は可愛い。否定はしない。
 平穏な状態がずっと続けば、いずれ『嫌い』は薄れていくだろうとも前回一緒に飲んだ時点で予想していた。
 何一つ間違ってはいない。正直に自分の心を眺めた結果だ。もうあの鬼を嫌いだと思う気持ちは大して残っていないし、思い出す度に可愛いと思う。
 けれど、最近の自分は鬼灯一色に染まり過ぎてはいやしないだろうか。振り返ると少し気持ち悪いくらいのレベルである。
 たとえば今の電話でも、どうせ連れてくるなら、お香も連れてくるよう言えば良かったのだ。少し前の自分なら、彼女を連れてこないのなら料理を食わせないくらいのことは普通に言っただろう。
 だが、現実には鬼灯が約束を反故にはしないと知って安堵し、連れができたと聞いて少しそれを残念に思ったのである。これまでの自分達と見比べても、まるっきり反対の反応だった。
「ホント、どうしたんだろうな」
 不可解だが、考えても分からないものをいつまでも悩んでいても仕方がない。溜息をつき、白澤は携帯電話をテーブルに戻して、手を洗い直し再び包丁を握る。
 そして、鬼灯達の到着に間に合うよう、大量の料理の仕上げを一気に始めた。



 鬼灯に連れられて極楽満月にやってきた三匹のお供は、それぞれに荷を持たされていた。
 シロは体の両側に均等になるように小さめの酒壺を二つ括り付けられ、カキ助は背に同じく小さめの酒壺を背負い、ルリ夫は風呂敷包みにした酒瓶を鉤爪にぶら下げている。
 白澤も桃太郎も彼らを見た途端に噴き出さずにはいられなかったが、鬼灯はしれっとしたもので、宴会に参加するなら参加費が必要でしょうと言ってのけた。
 かくいう鬼灯は、その剛力に任せて酒の樽三つに荒縄をかけ、運んできている。
 持参した樽と壺の中身は焼酎が二銘柄、どぶろくが一銘柄、あとは全て純米の酒だった。
「もっと色々種類あっても良かったのに」
「そうやってちゃんぽんするから悪酔いするんですよ」
 洋酒がないと文句をつけると、さらりと鬼灯は言い返す。そして、店の前に出したテーブルの上にこれでもかとばかりに並べられた料理を見やった。
「随分と沢山作ったもんですね」
「うーん、何となく?」
「何ですかそれ」
 突っ込まれるが、しかし、正直に、お前のことを考えていたらこの量になりましたと、ドン引き必須の答えを口にすることはできない。
「どうせお前は夕飯まだだろうと思ったし、朝まで飲むんならそれなりに量が要るかと思ったし……。おにぎりと蒸し饅頭も作っておいたから、好きなだけ食えよ。蒸し饅頭は具なしだから好きなものを挟め。お勧めはハムの蜜煮やモツの味噌炒めだな」
 苦し紛れにそう言うと、おにぎり、の単語で闇色の目がきらりと光る。それきり鬼灯の興味は白くつやつやした米粒の塊の方に向いたらしく、質問は途切れて、白澤はほっと胸を撫で下ろした。
 それぞれの手や口の形に合った酒杯の用意も完了し、乾杯の音頭と共に星祭の宴が始まる。
 さりげなく見ていると、鬼灯は大量の料理を一通り見渡してから蜜汁火腿を一切れ、箸で取った。
 ぱくりと食べて、美味いと呟く。ただそれだけのことに、白澤の腹の底から嬉しさがじんわりと涌き上がる。
 そのために思わず目が離せなくなっていたのがまずかったのだろう。鬼灯が白澤の視線に気付いた。
「これ、美味いです」
「うん」
 美味いのは当然だ。自分が腕によりをかけて作ったのだから。だが、何故かいつものように笑ってそう言えず、白澤はただ短くうなずく。
 すると、鬼灯のまなざしは直ぐに料理の方に戻ってゆく。
 推測した通り、夕飯はまだだったのだろう。おにぎり一つをあっという間に食べた後、平たい小判型に成形した饅頭に次から次に具を挟み込んで食べている。
 空腹時には酒よりまず炭水化物である辺りが、何ともこの鬼らしかった。
「あ、お星様、また流れた!」
 はしゃぐ声が聞こえて振り返れば、シロが夜空を見上げて尻尾を振っている。
 流星が本格的に増えるのはまだこれからだが、全く飛んでいないわけではない。流星雨そのものは実は八月頭から始まっている。流星の素となる流星物質の軌道と地球の軌道は年に一度の周期で接近し、交わるのが八月十三日未明、旧暦の七夕の頃なのだ。
 今夜、日付が変わった頃から流星群の中心となる輻射点の高度が最も高くなる夜明けにかけては、数え切れないほどの星が降る。桃源郷の夜空は澄み渡っているだけに、その美しさは格別である。シロ達がさぞ喜ぶだろうと思うと、白澤の口元は自然にほころんだ。
「シロちゃん、肉は足りてるかい?」
「うん、美味しいよ!」
 問いかければ元気な返事が返ってくる。
 鬼灯から電話をもらって、白澤は急遽、味付けなしの肉を焼き、桃太郎に頼んで生野菜や果物、ナッツ類、ドライフルーツの用意をしてもらった。
 肉食の犬に比べ、猿や雉は雑食だが、ヒト用の味付けは彼らの体に良いものではない。霊的な存在である彼らは死ぬということはないが、体調を悪くすることはあるのだ。
 体質的に良くないものを食べさせることは、白澤の本分が決して許さなかった。
「ねえねえ、白澤様」
 骨付きスペアリブを嬉しそうに齧りながら、シロが話しかけてくる。
「鬼灯様ねえ、この宴会をすごく楽しみにしてたんだよ。今日のお昼に食堂で会った時、なんかいつもと感じが違ってたから、俺、ずっと気になってたんだ。で、仕事終わってから鬼灯様のとこに行ったら、いっぱいお酒用意してて」
「――へえ」
「話を聞いて俺達も行きたいって言ったら、貴方達も来てくれるのならもっと酒を持っていけますねって、もっと酒壺出してきたんだよ。どの酒を持っていくか、すっごく悩んでたみたい」
 だから、シロ達の同行を許したのか、と白澤は納得した。
 もっとも、酒のことがなくとも、この無邪気な犬にせがまれたら断るのは難しいだろう。どこまで自覚があるのか不明だが、鬼灯はシロにかなり甘い。
 それならそれで、と三匹分の酒の荷を用意している様を想像すると、ひどく可愛らしい気がして白澤の口元が緩む。
 ―――って、またかよ!
 どうしてもそちらの方向に流れたくなる思考にセルフ突っ込みを入れながら、白澤は鬼灯をちらりと見やった。
 並べられた料理を順番に味わっているうちに離れて行ってしまったのだろう。鬼灯はテーブルの向こう側で、取り皿に取った料理をまだ食べていた。
 今はとにかく空腹を満たしたい様子が、休みなく動く口元から見て取れる。本格的に酒に移行するのは、もう少し先のことだろう。
 傍目(はため)には、鬼灯は今夜ここに夕食を食べに来たようにしか見えない。けれど、楽しみにしていたのだとシロは言う。
 鬼灯の方から言い出したことであるのだから、当然のことかもしれない。だが、白澤は素直に嬉しかった。
 浮かれていたのは自分だけではないのだ。鬼灯もまた、今夜のことを考えていてくれた。
 シロに気付かれるくらいだから、少しくらいは気がそぞろになっていたのかもしれない。だとしたら、それは本当にすごいことだった。
 しばらくの間シロ相手に飲み食いしていると、料理を一巡した鬼灯が、またテーブルのこちら側へ戻ってくる。
「美味い?」
「はい。今日の午後は殆ど飲まず食わずだったので助かります」
「明日は日本地獄の釜の蓋が開く日だもんな」
「ええ。日の出と共に亡者たちを順番に出してゆきます。全部終わるのは夕方近くですね。現世で迎え火が焚かれる頃までには完了するようにしてます。とても賑やかですよ」
「だろうねえ」
 亡者たちは我先にと出たがるに違いない。長い長い年月続く呵責から一時解放される僅かな機会なのだ。その騒ぎは尋常ではないだろうと白澤は思った。
「お前はいなくてもいいの?」
「獄卒たちに任せてますよ。早朝から夕方まで付き合っていられるほど私は暇じゃありませんから、いつもの年なら普通に仕事してます」
「成程」
「今年は何かトラブルが起きたら大王に言うよう根回ししておきました。それでも携帯が鳴らない保証はないですけどね」
 言いながらも、まだ鬼灯はせっせと料理を皿に取っている。
 どれほど飲み食いしようと構わなかった。そのために作った料理の山である。
 けれど。
「食うのはいいけど、少しは星も見ろよ。何のために来たんだ、お前」
 口に出してはそう言って笑い、空になった杯に新たな酒を注ぐため、白澤はその場を離れた。



 上弦の月が西の地平線に消え、日付が変わる頃には、夜空を流れる星は目を瞠るほどに増えた。一分間に一つ以上の流星がまばゆい尾を引いて消えてゆく。
 最初の内はすごいすごいとはしゃいでいた桃太郎やシロ達も、今はもう無言で思い思いの格好で地面に転がり、夜空を飽きもせずに見上げていた。
 その中で鬼灯が一人立ち上がる。
 どうしたのかと白澤が問えば、酒が無くなりました、と答えが返った。
「飲み足りないので、滝の方に行ってきます」
「そりゃいいけど……」
 半ば呆れつつ白澤はうなずく。
 鬼灯が持ち込んだ酒は結構な量だったが、鬼灯が本格的に飲み始めたら到底足りない。桃太郎やお供の三匹はさほど飲まないし、白澤もあまり早く酔い潰れたくなくてペースを落としていたが、それでも酒壺の一つ二つ分くらいは飲んでいる。
 大ぶりの酒杯と空になった酒壺を持って歩き去ってゆく鬼灯の後姿を見送った後、白澤は再び夜空を見上げた。
 輻射点は北の空だが、星は全天にほぼ満遍なく飛ぶ。
 その正体が彗星の軌道上に撒き散らされた岩塊や氷塊、いわばゴミであることは分かっている。それでも夜空を彩る流星は、ひたすらに美しかった。
 流れ落ちる星を数えながら、白澤は鬼灯のことを思う。
 彼が向かった養老の滝は南向きにあるから、正面に陣取れば滝の後背の夜空に星が飛ぶことになる。まさに絶好のロケーションだった。
 しばし迷った後、白澤は立ち上がる。
 少なくともあの鬼は、独りで静かに星を愛でつつ呑みたいなどという繊細なメンタルは持っていないだろう。星は星、酒は酒、美しいものに佳い酒が加われば、それはそれで重畳というタイプである。
 自分の酒杯を持ったまま、白澤も鬼灯が消えた夜道をふらりと辿った。
 桃林の中を抜けたその先、視界が開けたところに養老の滝はある。ふわりと夜風に吟醸香が混じり、水音が聞こえてきたならば、もう直ぐだった。
 思った通り、滝と正面から向かい合う岸辺にどっかりと座り込んで、鬼灯はぐいぐいと酒を煽っている。こんな呑み方をしながらも、碌に酔った様子を見せないのだから呆れたものだった。
 足音と気配で気付いているだろうと、断りなく白澤は彼の隣りに腰を下ろす。
 そして、酒壺に添えられた柄杓で酒を汲み、自分の結晶釉のぐい呑みに注いだ。
「随分と気に入ってくれてるんですね、それ」
「そりゃあ綺麗だから」
 事実、このぐい飲みを鬼灯からもらって以来、他の酒杯を使う気にならない。それほどに白澤は月の光を集めたようなこの器を気に入っていた。
「使ってもらえるのなら、私としても贈った甲斐がありますから嬉しいですけど」
「うん。……お前は? あの金魚の万華鏡はどうしてるの」
「毎日覗いてますよ」
 それは何の隠し立てもない、素直な答えだった。
「あれはいいものです」
「そっか。じゃあ僕も譲って良かった」
「はい」
 自分達がこんな風に感謝を伝え合う会話をするのはおかしい。最近のことを知らない誰かが見聞きしたら、天変地異の前触れか、二人の気が触れたかと思ったかもしれない。
 だが、やはり悪い気分ではなかった。むしろ、気持ちはふわふわと心地よく浮いている。
 鬼灯もそうなのだろうかと白澤はまなざしを隣りに向ける。
 鬼灯は酒杯を口元に運びつつ、夜空を見上げていた。整った顔立ちの中、闇色の瞳が星の輝きを映している。

 ―――何の気もなく目を向けただけだった。

 だが、その横顔に白澤は思わず見惚れた。
 さらりと流れる艶やかな漆黒の髪。白い肌によく映えている。
 長く真っ直ぐな睫毛が切れ長の目を彩り、ただひたすらに美しい。
 通った鼻筋、小さな口元。頬から顎、そして首に続くすっきりとした清潔な線。
 綺麗、だった。
 どくりと心臓が大きな音を立て、そのままとくとくと逸り出す。
 この美しさにどうして今まで気付かなかったのだろうと思った。
 単に振る舞いが可愛いだけではない。可愛げがあると言うだけではない。この鬼は美しいのだ。天に輝く星のように大輪の華のように見る者の目を奪う。
 息をすることも忘れて、白澤は鬼灯の横顔を見つめる。
 そのまなざしに気付いたのだろう。ふいと鬼灯が白澤に目を向けた。
 夜空よりもなお深い闇色の虹彩と瞳。この上なく美しい玄(くろ)に見つめられて白澤は声も出ない。
 呆けたように見つめていると、不思議そうだった鬼灯の表情がゆっくりと変わった。
 何かに驚いたかのようにまばたきし、白澤をじっと見つめる。まなざしは真剣であり、戸惑ってもいるようで、その様に、ああ、と白澤は思う。
 同じだった。きっと今、自分たちは同じ表情をしている。同じ想いを感じている。
 これまで千年、いや、それよりもずっと前から見知っている存在なのに、今初めて相手を見つけたような心地になっている。
 よく知っていたはずなのに、この相手の一体何を知っていたのか全く分からなくなる。ひどく心もとない気がして、白澤は耐え切れずにそっと右手を上げた。
 知識が役に立たなくなってしまったのなら、改めて知るしかない。この手で触れ、この目で見つめて感じるしかない。
 すべやかそうに見える肌に触れる寸前、指先がかすかに震える。こんなことは初めてだった。
 そうして触れた頬は、やはりなめらかで温かい。もっと触れたくなる不思議な力に満ちている。
 頬から続く首筋は。綺麗な鎖骨がくっきりと浮かんでいる肩口は。更にその先は。
 触れてみたいと強く切望するのに指先が動かない。不用意なことをしたらすべてが壊れてしまいそうで、吐息さえ潜めてしまう。
 鬼灯。
 声にならない声でその名を呼ぶ。
 美しい、朱い灯(ともしび)。闇の中で光り、照らす炎。
 いのちの色。

「鬼灯」

 祈るような想いをそっとそっと声に換える。
 消えないで。ここに居て。傍に居て。
 『今』が壊れてしまうことが恐ろしいと思うのに、どうしても触れたくて、確かめたくて。
 顔をゆっくりと寄せれば、鬼灯の長い睫毛がかすかに揺れる。そして、二人の唇が重なる寸前、闇色の瞳が静かに閉ざされた。
 触れて押し当て、離れるだけの愚かしいほどに稚拙な口接けだった。それなのに不思議なくらいに胸が満ちる。
 触れた唇のやわらかさに、温もりに、この鬼さえ居てくれればいいと、そんな切望で心がいっぱいになる。
 ああ、と白澤は思った。
 自分は恋に落ちたのだ。胸に渦巻いていた想いは恋という名だったのだと、今やっと理解する。
 いつからかは分からない。二ヶ月前からなのかもしれない。もっとずっと前からなのかもしれない。けれど今、果てのない恋に間違いなく溺れている。溺れ始めている。
 ―――鬼灯。
 好きだと思った。
 ただ純粋に、ひたすらに目の前の鬼が恋しく、愛おしかった。
 ゆっくりと唇を離して、闇色の瞳が再び開かれるのを待つ。
 美しく艶やかな玄(くろ)。夜空の如き果てのない闇の色。そこに自分と同じ想いを見出して、白澤はこみ上げる感動に胸を詰まらせながら笑んだ。
「お前が今夜、会いたいと言ってくれて良かった」
「酒を持参しましょうかと言っただけですよ、私は」
「同じことだよ」
 口調ばかりは冷静に訂正を入れてくる鬼灯に、白澤は猶、微笑む。
 口が達者で気が短くて乱暴者で、やることが時々おかしくて、誰よりも何よりも可愛い。
 本当に愛おしい。
「お前に殺されそうだ」
「死なないくせに」
「うん、死なないけど」
 それでも溢れ出す想いに息が詰まる。受け止めてもらえなかったら本当に窒息してしまいそうだった。
 どうにも切りがなくて、仕方なく白澤は僅かに身を引き、鬼灯の頬から手を離す。指先が離れた途端、恋しさが疼(うず)いて困った。
 けれど、大切すぎてこれ以上触れていることもできない。この鬼もこの想いも、とにかく大切に、何よりも大切にしたかった。
 途方に暮れるような思いで目線をわずかにずらせば、夜空を星が流れるのが目に映る。その彼方には天の川が光り輝く雄大な姿を見せており、今日が七夕であることを白澤は不意に思い出した。
「牽牛と織女の気持ちが、やっと本当に分かった気がする」
 脈絡のない呟きだったが、鬼灯はそれについては何も言わなかった。ただ、思い返すように首を小さくかしげて問いかけてくる。
「貴方の国の伝承は、日本に伝わってるのとは少し違うんですよね。日本だと恋に溺れて働かなくなった二人が天帝の怒りを買って……ということになってますが」
「うん」
 牽牛は貧しい人の子で、織女は天帝の孫娘の一人。
 毎日懸命に働く牽牛を見初めた織女は身分を隠して地上に降り、彼の妻となって二人の子まで成した。
 けれど、祖父たる天帝によって織女は天に引き戻され、彼女を必死に追う牽牛を疎ましく思った天帝の后が金の簪(かんざし)で夜空を裂き、二人を星の大河のあちらとこちらに引き離した。
 今、大陸で伝わっている七夕の伝説はこうだ。真実がどうであったのか、白澤は天に属するものとしてその一部始終を知っている。が、今はそれは重要ではない。
「織女も牽牛も、恋しい相手と一緒に居るために必死でなりふり構わなかった。どんなに苦労しても一緒に居たかったんだ。結局、叶わぬ願いになってしまったけどね」
「二人はまだ赦(ゆる)されていないんですか」
「うん。僕たち神様は気が長すぎてね。もう何千年も経つのに、まだ年に一回しか彼らは逢えない」
 憐れな恋人達だとずっと思っていた。
 生涯に一度きりの恋をしただけなのに、結ばれて可愛い子まで授かったのに、あまりにも身分が違いすぎるために引き裂かれた恋人達。
 けれど、世界の理(ことわり)は容易には破れない。そう思い、年に一度彼らのことを思い出しはしても、それきりだった。
 だが、今なら分かるのだ。姿かたち、いのちの形がどれほど異なろうと、ただ一人の相手を恋うる想いを止めることはできない。
 どんな障害であっても飛び越えて共に在り、生きてゆきたい。そう願うことを止められない。
 牽牛と織女は、地上で貧しいながらもとても幸せに暮らしていたという。かつて、織女は涙ながらに白澤にそう語った。
 本当に幸せで幸せで、毎日の機織りと水仕事のために手があかぎれでひび割れてもちっとも辛くなかった。寒い冬の夜、愛する夫がその手を懐に抱いて温めてくれるのが本当に嬉しくて幸せだったと、ほっそりとした美しい手を握り合わせ、真珠のような涙をほろほろと零しながら言った。
 夫は誰よりも優しくて働き者で、子供達はとてもとても可愛かった。大切な大切な家族。彼らさえ居れば、宮殿も絹の衣装も金銀宝石の飾りも要らなかったのに。
 美しいものだけに囲まれた豪奢な宮殿の一室で、たおやかな天上の姫君は血を吐くような声でそう嘆いた。
 何一つ不自由ない暮らしの中、年に一度、夫と子供達に逢えることだけが彼女の心の支えだった。
 薬師として彼女を診たのはもう随分と前のことだが、今も彼女の境遇は変わらないだろう。少しでも彼女の気が晴れるよう、心を尽くした生薬と花茶の配合を伝えたが、果たして何かの助けになったのだろうか。
 否、ならなかっただろうとほろ苦く白澤は想いを噛み締める。
「年に一回じゃ到底足りるわけがない。彼らが早く赦されればといいと思うよ」
 一瞬たりとも離れたくないほど恋しいのに、遠く引き離され年に一度しか逢えないと決められてしまったら、どれほど辛く苦しいか。
 白澤ならば本性の獣の姿に戻り、力の続く限り暴れるだろう。どんな罰を受けようと、ありとあらゆる方法で鬼灯と共に在ろうとするだろう。
「まぁ幸い、僕には身分的に課されているものは少ないから、お前とどうなろうと取り沙汰されることはないけどね。天帝から見れば、神獣も妖怪もただの獣だ。現世に様々な鳥獣がいるのと同様、天界にも様々な鳥獣がいる。その程度だよ」
「――本当に?」
「お前に嘘は言わない」
 きっぱりと断言すると、闇色の瞳がわずかに揺れる。
 鬼灯は類を見ないほどに豪胆な気性の持ち主ではあるが、それでも互いの立場をちらりと思わずにはいられなかったのだろう。
「神獣仲間で進退が問題になるのは竜王くらいだよ。竜の一族は禁軍の一翼を担(にな)ってるからね。その後嗣や縁組に天宮が口を出してくることも少なくない。けれど、あとの連中は大抵、野放しだ」
 僕なんて本当にただの獣、と繰り返すと、鬼灯は小さく肩をすくめた。
「日本地獄で好き勝手に遊んでいる貴方が、難しい理(ことわり)に縛られているとは私も思ってませんでしたけど」
「まぁね」
 国境を越えた放蕩が許されているのも、立場が軽いからである。
 薬師としての仕事は道楽に過ぎないし、瑞獣として現世に顕現したくなる衝動に駆られることも滅多にない。妖怪の長としての立場も成り行き上そうなっているだけで、大して意味のある称号でもない。
 白澤は自由だった。どこに行こうと誰を愛そうと、誰にも咎められることはない。
「お前の方は?」
「犯罪に手を染めでもしない限り、私のプライベートに口を出すような人はいませんよ。強いて言うなら大王くらいでしょう。聞きませんけどね」
 第一補佐官とはいえ、所詮、官吏の一人に過ぎないのだと鬼灯は言った。
「お前がちっとも見合いをしないって愚痴は、僕も時々聞かされてるよ。誰か、鬼灯君がその気になるようないい娘はいないかなって」
 閻魔大王の定番の愚痴を思い出して告げると、鬼灯は眉間に皺を寄せ、あのクソジジィと小さく罵る。
「結婚する気があるんだったら、とっくに相手を見つけてしてますよ。でも今の勤務状況では家庭を持つのは、まず無理です」
「僕とでも?」
 憮然として言う鬼灯に、ふと心が動いて言葉を挟んでみる。すると、鬼灯は驚いたようにきょとんと目をまばたかせた。
 そしてすぐさま、嫌そうな顔になる。
「さっきの今で、もうそれですか」
「まぁ、会話の流れで何となく?」
「いい加減にしたらどうです、そのゆるふわ思考」
「そんなこと言われたって性分だし」
 肩をすくめると、知ってますけど、と冷たく言われる。
 それで答えはどうなるのだろうと待っていると、やがて鬼灯はほうと諦めたような溜息をつき、口を開いた。
「千年通ってから、もう一度言って下さい」
「千年? 千夜じゃなくて? っていうか、そういうのって百夜(ももよ)通いじゃないの?」
「千年と言いました」
 鬼の返答は取り付く島もない。けれど、と白澤は思う。
 寿命のない自分にとって千年は別に長い時間ではない。鬼灯にしてもそうだろう。彼がこれまで生きてきたうちの何分の一かに過ぎない歳月である。
 比べて、これから共に過ごすだろう日々は遥かに長い。
 そう思えば、決して無理難題ではなかったし、遠回しな断りの返事でもなかった。むしろ、求婚したいのならきちんと手順を踏んでからにしろと言われている感がある。
 向こう千年お付き合いして、うんざりするくらいに互いのことを知った後、それでもまだ一緒にいたいと思うなら結婚してもいいですよ。
 鬼灯はそう言っているように思えた。
「いいよ、分かった。じゃあ千年後にもう一度言う」
「はい」
 そうして下さいと鬼灯がうなずくのを見届けて、白澤は満足しつつも念を押すのを忘れない。契約をする時は最初にきちんと細部まで確認しておかないと、往々にして後から痛い目に遭うことになるのだ。
「確認するけど、千年通えって、毎晩欠かさず日本地獄に来いっていう意味じゃないよな?」
 問えば、鬼灯は心底嫌そうな顔をする。
「それじゃあ私にとっても只の嫌がらせでしょうが。そんな条件を出して私に何の得があるんです?」
「僕もそう思ったけどさ。じゃあ、今ぐらいのペースでいい? 月に何回か、逢える時に逢うって感じで」
「ええ」
 十分です、と鬼灯は応じた。
 それから鬼灯はちらりと酒壷にまなざしを向け、酒はもういいと思ったのだろう。手を伸ばさないまま夜空を仰ぐ。
 倣(なら)うように白澤も見上げてみれば、一つ、また一つと星が流れてゆく様は、ただ美しかった。億年を超える歳月の間、その殆どを独りで眺めてきた光景である。
 この美しさを今、独りではなく見ることができるのは、幸せとしか言い表しようがなかった。
「鬼灯」
 星空を見上げたまま、名を呼ぶ。
「好きだよ」
 そう言い、まなざしを向ければ、まずは驚いたような顔、それから戸惑う顔に変わり、やがて何とも言えない憮然とした表情に落ち着く。
 どういう反応だよと苦笑しつつ見ていると、鬼灯は先程とよく似た諦めたような溜息をついて言った。
「私も好きです」
「うん」
 成程、溜息は白澤に対してのものではなく、認めるしかないと観念したことの表れだったかと納得しながら白澤はうなずく。
 十分だと思った。
 まずは千年と鬼灯は言ったが、自分達の想いがどこまで続くものか、本当のところは見当もつかない。あっという間にまた只の喧嘩相手に戻るのかもしれないし、世界の終わりまで続くのかもしれない。
 あまりに長過ぎる時間を存在し続ける者にとって、未来を考えることは殆ど意味のない行為である。白澤はいつでも『今』があれば良かった。
 その大切な『今』に、鬼灯は傍に居てくれる。
 僅かに手を伸ばせば触れられる距離で、肩を並べて夜空を見上げていてくれる。
 それだけのことがたまらなく幸せに思えて、温かく胸に満ちてくるものを噛み締めていると、ぽつりと鬼灯が言った。
「悪くないですよ、これはこれで」
「――うん」
 どういう意味かとは問わなくても分かる気がした。
 ほんの二ヶ月前には、こうなるとは互いに夢にさえ思わなかったのだ。それが金魚の万華鏡をきっかけに、めまぐるしく二人の関係は変化した。
 くるりと百八十度回転したような感情に戸惑う気持ちはあるが、迷いはない。
 右手を伸ばし鬼灯の左手に重ねると、鬼灯は暑苦しいと呟いたものの、振り払いはしなかった。
 骨張った温かな手の感触は手のひらに心地よい。今はこの手を取って歩いてゆけば良い。そう思い、白澤は微笑む。
「やっぱり僕はお前が好きだ」
「……分かってますよ」
 星空を眺めながらの返答に、やはり満足して。
 白澤は手のひらに鬼灯の温もりを感じたまま、いい加減に離して下さいと言われるまで飽きもせず流れる星を数え続けたのだった。



(終)



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