物持ちではない静雄の部屋は、六畳間より少し広い程度の1Kで、小さなテレビとこたつテーブル、それくらいしか目につく家財道具はない。
 その部屋の隅に積んであった二組の布団の横に、静雄はサイケの布団を下ろした。
「わあ……」
 そうして振り返ってみれば、サイケは目を丸くして、狭い室内を見回している。
 不意に臨也のマンションに比べるとあまりにも何もない部屋が、少しばかりきまり悪いような気分がして、静雄は自分の後頭部の髪を小さくかき上げた。
「悪いな、狭くて」
「ううん、全然。このお部屋、シズちゃんと津軽の匂いがする」
「あ、ヤニ臭ぇか? 津軽が来てからは、部屋ン中では吸わねえようにしてんだけどよ」
「煙草の臭いじゃないよ。それも混じってるけど、シズちゃんの匂いと津軽の匂いがするの。ふふっ、嬉しいなぁ」
 そう言ったサイケは本当に嬉しそうに笑い、津軽の腕に自分の腕を絡めてしがみつく。
 ずっと黙ったままの津軽は、やはり何も言わずに目を細めて、サイケのやわらかな黒髪を空いている右手で撫でた。
 ここに来ても変わらず仲の良さを見せ付けるような二人に、静雄も気が抜けたような気分で小さく笑い、ぽんぽんと両手で二人の頭をそれぞれ撫でた。
「じゃあ、お前たち交代で風呂に入っちまえよ」
「え、でも……」
 戸惑ったような声を上げたのは、サイケではなく津軽だった。
 案外に細やかな性格のこのクローンは、静雄の帰宅が遅くなっても、いつも一番湯を静雄に譲る。
 仕事をして疲れて帰ってきているのだから、静雄が先に汗を流してくつろぐのが当然、という思考であるらしい。
 だが、今日くらいは構わないと静雄は笑った。
「たまにはいいだろ。俺は最後にゆっくり入るからよ」
「でも……サイケはお客だから先でもいいけど……」
「え? 俺、お客さんじゃないよ? ここに住むんだもん。だからシズちゃん、シズちゃんがお風呂一番なら、俺はその後でいいよ」
 口々に言ってくるクローンズに静雄は軽く目をみはった後、相好を崩す。
 そして、二人の頭に載せたままだった手で、くしゃくしゃと二人の髪をかき回した。
「いいんだよ、今日だけだからな。サイケがうちに来た記念日だろ。だから、今日は一番がサイケで、二番が津軽な。ほら、さっさと入っちまえ。でないと俺が入れないだろうが」
 そう言い聞かせると、サイケは分かった、とうなずく。
 それを横目で見てから、津軽もまだ悩むそぶりを見せつつ、うなずいて、湯を張るために浴室に向かった。
 サイケも、俺も行く、と津軽について行き、そんな二人に苦笑しながら静雄は畳の上に腰を下ろす。

 ずっと一人暮らしをしていたこの部屋に、クローンとはいえ自分以外の誰かを招き入れることになるとは、ちょっと前までは想像もしていなかった。
 ましてや客ではなく、同居人としてである。
 自分が他人と暮らせるのかと新羅が津軽を連れてきた時には危ぶんだが、静雄のクローンという割には津軽は異常に大人しく、むしろ弟の幽に性格が似ていたため、同居は案外にすんなりと成立した。
 しかし、今回増えた同居人は、臨也のクローンである。
 こちらもオリジナルとは似ても似つかない性格をしているが、だからといってクセがないわけでもない。
 人に構ってもらうのが大好きだし、要求が拒否されればしつこく説明を求めるし、納得できない時には絶対に自分の主張を諦めない。
 そういう意味では結構扱い辛いのだが、静雄にしてみれば、素直に要求を口にし、きちんと駄目だと言えば諦めるサイケは、オリジナルの臨也と比べれば月とすっぽん、同居しても構わないと思えるほどに可愛いだけだった。
 むしろ、口先で理屈をこねるのを常としている臨也の方が、今夜のようにサイケを扱いかねている時がある、というのが静雄の正直な見立てである。

 とはいえ、今夜のサイケの一緒に暮らしたいという言葉は、寝耳に水で、静雄もさすがに驚きはした。
 だが、考えれみれば、確かに合理的ではあるのだ。
 一緒に暮らせば、少なくともサイケと津軽の携帯電話が使い過ぎで壊れることはないし、二人に寂しい思いをさせることもない。
 そして、静雄自身も、臨也のマンションにいる間は、臨也相手にもさほどイラつかずに済むのだから、気分的にも随分と楽だった。
 問題があるとしたら、本当に通勤時間のことだけだったのである。
 そして、付け加えるとするならば、目を潤ませて見上げたサイケが、自分の拒絶によって本格的に泣き出すのを見るのも嫌だった。
 サイケに限らず、泣く相手にはどうしていいのか分からないのは昔からだ。
 だから、そんな居心地の悪さを味わうくらいなら、さして難しい要求でもなし、受け入れてしまう方が楽だった。
 だが、肝心の家主である臨也が拒絶するのだから、仕方がない。
 ──臨也を説得するのは面倒だし、できるとも思えない。それなら、うちで同居すればいいだろう。
 そんな、ある意味、非常に短絡的な思考で静雄はサイケを自宅アパートに連れてくることにしたのだが、今のところ、サイケは非常に楽しそうにしている。
 この先、これがどう転ぶかは分からないが、見切り発車のスタートとしては上々だった。

「静雄」
 そうこうするうちにサイケは着替えを抱えて狭い浴室に消え、津軽が改まった様子で話しかけてくる。
「何だ?」
「本当に良かったのか、サイケを連れてきて」
 戸惑った瞳で生真面目に訪ねた津軽を見やり、そして、静雄は短く考える。
「──いいだろ、別に」
「でも……」
「お前が気にしてんのは、臨也のことか?」
「──ああ」
 逆に問いかけると、津軽は困ったような表情をしつつもうなずいた。
「臨也のマンションで会っている分には、そんなに仲が悪そうには見えないが、この部屋ではお前が臨也のことをよく言うのは聞いたことがないし、これまで色々あったんだろうことも何となく分かる。でも、臨也はサイケのオリジナルだし……」
「まぁなあ。あいつとはこれまでに色々有り過ぎるぐらいにあるからな」

 こんな風に普通に名前を出して話せるだけでも奇跡に等しいと思いながら、静雄はぽつりぽつりと自分の中にある感情を言葉に変換する。
 自分の思いを言葉にするのは得意ではないが、そうしなければ津軽には伝わらない。
 幽にそうしてきたように津軽にも、静雄は自分にできる範囲で気持ちを言葉にしようと努めていた。

「──俺が今夜、サイケをうちに連れてこようと思ったのは、臨也を説得するのが面倒くせぇってのが大きいが、ちょっと頭を冷やした方がいいと思ったっていうのもある」
「……臨也が?」
「あいつもだし、サイケもだ。どうやら昼間っからずっと喧嘩してたみたいだったからよ。──臨也が俺とは暮せねえっつーのは、俺は分かるけど、俺たちのこれまでを知らないお前たちには分からないだろ。だから、臨也はサイケを納得させられねえ。サイケも臨也の言い分には耳を貸さねえ。
 で、こじれてややこしくなれば、あいつらのことだから、絶対に火の粉が俺とお前に飛んでくる。だから、サイケをうちに連れてきた。喧嘩で言うんなら、間合いを取ったっつーとこかな」
「じゃあ、一時避難ということか」
「ああ、そんな感じだ。誤解しないように言っとくが、俺は別にサイケがずっとうちに居ても構わねえ。同居してもいいっつったのは本心だ。──ただ、臨也はそうは思わないだろうからな。近いうちにサイケを連れ戻すために、何か仕掛けてくるだろうぜ」
「何かって?」
「さぁな。ノミ蟲の考えることなんざ、知ったこっちゃねえよ。でも、このまんまじゃサイケを言いくるめられないからな。また性悪なことを考えてくるんじゃないのか」
 肩をすくめながら答えると、津軽はじっと静雄を見つめてくる。
 静雄のように脱色していない津軽の髪色は地毛のままの明るい茶色で、普段の鏡に映る自分とは随分と印象が異なる。
 クローンといっても違う人間なんだよな、と改めて思いながら言葉を待っていると。

「……俺が思っていたより、静雄は臨也が嫌いじゃないんだな」

「は? 大嫌いだぜ。あんな奴は死んだ方が世のため人のためだと、八年前から思ってるからな」
 思いがけないことを言われて、静雄は心底呆れて言い返した。
 他の人間に同じことを言われたらブチ切れるが、幽とよく似た津軽に対してはリミッターがかかる。
 だから、いつになく冷静に静雄は相手の言葉について考え、何故津軽がそう言ったのかについて想像を巡らせた。

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